『ノンストップ!』では、友人の電話がかかってくるまで、主人公の日常の描写が十七行ありましたが、『ハイスピード!』にはそれさえありません。なにせ本を開いて最初の一行が、
目を開けた瞬間、わかった。今日は悪い一日になる。
というものなのです。すでに日常は破壊されていることが告げられています。そして、そのわずか二行あとで、主人公が寝ていたベッドが血まみれであることが判明。そこから先は冒頭に記したとおり。約三百六十ページを一気に走り抜けてゆきます。『ノンストップ!』で開眼した「高速サスペンス術」を、カーニックは本書で自家薬籠中のものとしたと言っていいでしょう。
こうしたカーニックのスタイルは、以降の作品でも踏襲されています。例えば本書につづく第七長編Deadlineについて、ミステリ作家のハーラン・コーベンは「アクセル踏み抜きっぱなし」と評していますし、第八作Targetについてイヴニング・スタンダード紙は、「首が折れそうなほどのスピード感」と形容しているのです。中編小説Wrong Time, Wrong Placeに付された惹句では、「タイムリミット・サスペンスの巨匠」という二つ名がカーニックに与えられています。
物語が進むにつれて謎と危機がぐんぐん増大してゆくプロットについても評価は高く、激しくツイストするさまが「釣り上げられたウナギ」(イヴニング・スタンダード紙)や、「覚醒剤を食らった大蛇」(ザ・タイムズ紙)に例えられています。
前作『ノンストップ!』では、主人公は陰謀のとばっちりを食った平凡な勤め人で、まさしく「巻き込まれ型サスペンス」の常道として、執拗に襲撃してくる敵に対して受け身で逃げつづけていました。これが『ノンストップ!』のサスペンス感を大いに醸成していましたが、ひたすら逃げつづける姿に、サスペンスと表裏となった多少のフラストレーションをおぼえるところもありました。
その点でも本書『ハイスピード!』は、前作のヴァージョン・アップ版となっています。主人公タイラーは、かつて北アイルランドでの凄惨な戦闘を経験した元兵士。肉体も頑健であり、戦闘の手段も心得ており、修羅場にも強い。ゆえに、ただ受け身となって逃げるだけでなく、よりアクティヴでダイナミックに反撃に打って出ます。一方で敵の動きも過激さを増し、銃弾が飛び交う場面も少なくありません。主人公と敵とが対等な戦闘能力を持つ「対決」のスリルが、本書の軸となっているのです。
また、タイラーをとりまく人脈が「軍」を中心にしていることから、本書には、現代のヨーロッパにくすぶる紛争や悲劇が影を落としています。冷戦下で抑え込まれていた民族の対立が、重石を失ったことで火を噴いたものもあれば、先進国が貧しい国を搾取する問題(端的な例では犯罪組織による人身売買)もあります。主人公を元兵士にすることで、サイモン・カーニックは、ヨーロッパの暴力の連鎖を、ノンストップ・サスペンスの背景として巧みに描いているということもできそうです。
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