なぜ、独裁なのか。
ロシア人の民族的遺伝子には、「独裁(デイクタトウーラ・диктатура)」の九文字が組み込まれているのか?
そんな疑問を抱えながら、私は成田を飛び立った。アエロフロート五七六便は、高度二万メートルの上空を滑らかに泳ぎつづけていた。
スチュアデスから手渡されたポータブル・ビデオシステムの小さな画面に「THE SUN」という文字が浮かび上がる。まさか、と思った。一昨年の夏、日本でも封切られ、話題になったアレクサンドル・ソクーロフの映画「太陽」が、「現代ロシア映画」のリストに収められていたのだ。この映画は、人間宣言を決意した昭和天皇の一日を描いた一種の歴史映画で、「太陽」はいうまでもなく、昭和天皇ヒロヒトのメタファーである。「現人神」のヒューマンな内面を演じるイッセー尾形が、言葉に尽くせない巧みな味を出していて、私は約二時間、暗闇のなかで息をしのばせつづけた。
何よりも鮮烈だったのは、東京大空襲の場面である。地下壕にある研究所でつかのまの作業を終えた天皇が、大空襲の悪夢にうなされる。地獄絵をなして燃え上がる東京の上空を、B29が、水槽のなかの魚のようにくねくねと泳ぎまわる。魚と戦略爆撃機、水と大火の、何というメタフォリックな豊かさに満ちた映像だろうか。イメージの創造に命をかける芸術家の飽くなき貪欲さに恐れをなし、この衝撃的な美しさと、ポータブル・ビデオの小さな画面で出会ってしまったことに後悔を覚えていた……。
今回のロシア訪問は、NHK・ETV特集のための取材が目的だった。大統領選をまぢかに控えたモスクワをスケッチし、新たな独裁の時代に入ったロシアの姿を、十九世紀ロシア、とりわけドストエフスキーの目線から考え直そうという企画である。しかし、案内役の私には、それとは別の、ある、隠された目的があった。
今年の初め、佐藤優氏との二度にわたる対談「ロシア 闇と魂の国家」で口にした疑問を、現地で、もう一度確認したかったのだ。その疑問というのが、冒頭に記した四行だった。『国家の罠』や『自壊する帝国』の著者である佐藤氏が、厳としてプーチン支持をとなえ、現代における「大審問官」の復権という独自の見方を示したことにもひどく刺激されていた。なに、独裁って悪くないのか、そんな思いである。
他方、私は、いわゆる「プーチン独裁」に対して、何かしら生理的な嫌悪のようなものを覚えていて、今回のロシア行きにも食指をそそられなかった。しかし、いったん行くと決めたからには、佐藤氏の真意を確かめ、なしうる限り、ロシアの市民たちの本音をさぐりたいと願った。そもそも、私がいま抱いているロシア観こそ、たんに一人よがりの、ロシアの古い思想家たちの古い価値観にしたがった、救いがたく時代錯誤的なものなのか。
モスクワの都心部に雪はなく、道路も車もすべて泥まみれだった。トヨタやメルセデスの高級車が平等に泥にまみれているのを見るのは、なぜか心地よかった。私は、NHKの担当ディレクター山口氏と街頭に飛び出し、道行く人に尋ねた。返ってきた答えは、十中八九、プーチン支持の答えだった。私の脳裏に、思いがけず、ドストエフスキーが晩年に記した言葉が浮かんできた。
「わが国は無制限の君主制だ、だから、おそらくどこよりも自由なのだ」
道行く人々の明るい顔つきから見るかぎり、いわゆる「独裁」に対する支持とは、かなり趣が異なるように見えた。独裁と自由とが同居し、併存できるという、ロシアの、この奇妙な現実――。
私は、ロシアに来て、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』で提示した「大審問官」のテーマをめぐってあれこれ考えていた。「大審問官」のテーマは、ごく大雑把な言い方をすれば、人間にとって、精神の限りない自由、つまり天上のパンと、人間が物理的に生きていくための地上のパンと、どちらが大事なのか、という問題に尽きる。それは、一国の民を従える為政者にとって、ぎりぎりの二者択一であり、時代を問わず、為政者が民に保証すべきものは、地上のパンである。しかし、グローバル化された現代において明らかになったのは、人間は、地上のパンのみでも生きられないという現実である。ご存じのように、一九九一年のソ連崩壊によって、ロシア人は計り知れない精神的ダメージを受けた。ロシアに生きることが恥ずかしい、それが、一般市民の正直な印象だったのではないか、と思う。つまり、もはや民衆ならざる市民は、ナショナルな自信という、もう一つの地上のパンを持つことなしに生きることができないということだ。そしてそこまで市民の意識は進化しているのである。
もしも、プーチン体制下で、天上のパンと「二つの」地上のパンが等しく分け与えられているのであれば、「独裁」のどこにも文句をつけるいわれはない。
モスクワで予定した最後のインタビューは、「太陽」の監督ソクーロフだった。ロシア的精神性の偉大な継承者と考えていた私は、つよいロシアの再生にさぞかし満足しているだろうと思いきや、そうではなかった。ソクーロフ氏の表情は重く、返ってきた答えは、どれもこれも陰影を帯びていた。というのも、最新作「アレクサンドラ」の上映に当局が介入しているらしい。昨年のカンヌにも出品されたこの映画は、チェチェンにあるロシア軍基地に孫のデニスを訪れた一人の老女の二日間を描いた作品だが、その反戦的な内容を嫌ったのか、封切りされた映画館にはなんと十名弱の観客しか集まらなかったという。嫌がらせを目的に、当局が、チケットの買い占めに出た可能性もある。
モスクワに来て初めて、私は初めて、プーチン体制の隠された一面を見たような気がした。独裁は確実に存在し、天上のパンと地上のパンは、結局は永久に相容れないのだろうか。一挙に否定的気分に傾きだした私の目になにやら、ソクーロフ氏の顔が、「大審問官」に登場する「彼」すなわちイエス・キリストと二重写しになった。
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