書評

この著者しか書けない、迫真にして超絶技巧の登攀シーン!

文: 宇田川 拓也 (ときわ書房本店)

『その峰の彼方』 (笹本稜平 著)

『その峰の彼方』 (笹本稜平 著)

 津田の信条は一見すると自殺願望のようにも聞こえるが、祥子が津田の子を身籠り、さらには略奪と搾取によって長く虐げられ、いまもなお貧困生活を余儀なくされているアサバスカ・インディアンの保留地を豊かにすべく、あるプロジェクトに力を注いでいたことを考えると、必ずしもそうではないようにも思える。

 こうして、津田のつかみ切れない真意と行方を追う、吉沢を含めたチームによる捜索行がスタートするわけだが、本作の大きな美点のひとつに、偉大なる山への畏敬、登山家が内に秘めた一途な――常人には容易に理解できないほどの強い挑戦の念、そして人間が生きている限り抱くべき希望を、それまでの作品を凌駕する洗練された透明度で描き切った点が挙げられる。

 作家活動の初期に発表された『天空への回廊』では墜落した人工衛星をめぐる国際謀略小説の要素が盛り込まれ、スリリングな活劇で読み手を力強く牽引していたが、続く『還るべき場所』では一転して謀略活劇要素を削ぎ落し、ストレートな山岳小説をものしてみせた。ここから笹本山岳小説は、前述の三つの要素を揺るぎない説得力とともに伝えるべく純度の向上に心を砕いてきたように思う。その腐心が本作では、ひとつの到達点を迎えたと感じるほど見事に成し遂げられている。冒頭でも述べたように、物語の至るところに散りばめられた、たとえば「未来を決める権利は人間にはないかもしれないが、信じることはできる。信じる力は涸れることのない勇気の泉なんだよ」という台詞に代表される、単行本の帯で「魂の言葉」と称された箴言の数々を、じつに素直な気持ちで受け止められるのは、この達成ゆえであることは間違いない。

 また、これまで笹本山岳小説に触れたことのある読者なら、本作の“洗練された透明度”に、ほかの作品にはないどこか異なる質感を覚えることだろう。

 ある箇所で、現在の津田の言動や生き方が、アサバスカ・インディアンの長老――グレッグ・ワイズマン・ギーティングから大きな影響を受けていることが明らかになるが、こうした先住民の思想が通底し、日本人が主人公の物語ではなかなか得られないタイプの神聖さを獲得しているのもまた、本作の読み逃せない重要なポイントといえよう。

 ただし、本作の白眉は、これまで挙げてきた美点とはさらにべつにある。

 てらいなく、真っ直ぐに、まるで工夫や技巧に背を向けるような、引き算で構成された印象を抱かせる物語の後半において、笹本稜平はこれまで培ってきた小説家としての膂力と技能を全開にし、意表を突く手法でクライマックスへと進んで行く。これが凄い。笹本作品で描かれる迫真の登攀シーンは誰もが認めるところだが、本作のそれはアイデアとテクニカルともに優れた、まさに小説でしか成し得ない超絶技巧だ。この手があったか! と膝を打ち、物語の不鮮明だった部分がみるみるクリアになっていく様子を無我夢中で追い掛けてしまうだろう。ちなみに、登山家が秘めた常人には容易に理解できないほどの強い挑戦の念は『大岩壁』に、小説でしか描くことができない登攀シーンは『分水嶺』に引き継がれているので、ぜひこちらにも手を伸ばしてみていただきたい。

 笹本山岳小説は本作でひとつの到達点を迎えたが、まだ頂上へと至ったわけではない。これからもさらなる高みを目指し、「二〇一〇年代山岳小説の第一人者」の評価を不動のものとする傑作を続々と紡いでくれるはずだ。遥かにそびえる峰を前に、自信をなくし、心細く立ち尽くすような毎日を送るひとびとに、その峰の彼方にある希望の光輝を垣間見せ、信じさせてくれるような傑作を――。

その峰の彼方笹本稜平

定価:本体840円+税発売日:2016年12月01日


 こちらもおすすめ
書評そびえ立つ世界最大の「壁」……「魔の山」に挑むクライマーの人間ドラマ(2019.06.03)
書評山に登ることへの問いかけ(2014.03.12)
インタビューほか山は、人の生きる意味と向き合う場所(2014.01.21)
特集祝・8.11! 人々を癒し、時に脅かす“山”を読む【山の日まとめ】(2016.08.11)
書評洗練と透明度の到達の先(2016.06.01)
書評山好き書店員が読んだ『春を背負って』 若き山小屋の主のたくましき成長物語(2014.07.20)
インタビューほか笹本稜平 × 木村大作 『春を背負って』が問いかけるもの(2014.06.13)
インタビューほか[映画化記念対談] 笹本稜平(原作者) ×木村大作(映画監督) 山小屋に希望を託して(2014.04.09)
書評山によって自分を、人間性を取り戻す物語(2011.05.20)