蕪村の弟子松村月渓が絵師として大成し、呉春と名乗るまでを描いた「月渓の恋」は、人生の哀歓がのぞく。女衒に売り飛ばされた女の面影を胸に秘め、ようやく添い遂げたと思ったとたんはかなくも手からこぼれていった恋……。傷心を癒すために移り住んだ地の古名と、妻の名にちなんだ名に変えた夫の姿がしみじみと悲しい。いずれの短編もさらりと読ませるが、それぞれ実に凝った構成で丁寧に仕上げられている。「月渓の恋」は幽霊絵や占いをからませ、不穏さを感じさせるストーリーテリングが絶妙だ。
一方で、恋愛のもろもろの中の生々しい部分は避け、一つ一つの恋のありようを遠くから眺めるように描く。それが情感を増す効果にもなっている。とはいえ、押さえた筆致のあちこちに艶を感じてしまうのは私だけではないはずだ。
「牡丹散る」の七重は、天下の円山応挙に心寄せられ、絵を描く技量のない若い夫との間で揺れ動く。応挙が絵に向かった時の目の厳しさを思い出し、〈(あの目で見つめられたら、わたしはどうなってしまうのだろう)/七重は息が詰まるような思いがして目を閉じた〉。甘やかな予感が匂いたつ。しかし描けなかった散った椿を描けたと喜ぶ若い夫に、〈(でもきっと、わたしはこのひとと別れられない)/七重は新五郎の方にゆっくり頬を寄せた〉。こちらから見えるのは紅蓮の炎。「梅の影」で小糸との恋に眉をひそめる弟子たちに対し、〈「わかっとるのや。この年になって女に想いをかけるやなんて無惨なことやいうことはな」〉と口にする蕪村の言葉に、老いた官能の苦しみを思い浮かべさせられ慄然とする。
葉室作品にはこれ以降も『千鳥舞う』(二〇一二年刊)『おもかげ橋』(二〇一三年刊)など、恋愛小説が登場する。なぜ折にふれ恋愛を描くのか。前述の「六十年くらい生きてしまうと」に続く発言となる。「年をとると欲が抜け落ちて、本当に人を好きになるのが大切でいいことだと純粋に思えるようになる。そのことだけが大切で、価値があると自然に思えるところが出てくるんです」
「雛灯り」は短編集にアクセントをもたらす一編だ。〈源太騒動〉の混乱と、その混乱を引き起こした建部綾足の過去のいきさつに絡む三つのわりなき恋を描いた。これは、いくつかの物語の元ネタになった実際にあった事件に対する葉室さんの関心が前面に出た異色作のように思う。
さて、ここまで意識的に避けてきた話題がある。与謝蕪村とその周辺に題材をとった小説で俳諧に触れないわけにはいかない。とはいえもとより浅学非才の身ゆえ、内容に踏み込むすべはない。だから別角度で言及してみたい。葉室作品には絵や漢詩、和歌、俳句、『葉隠』などの書がよく登場する。『いのちなりけり』しかり。デビュー作『乾山晩愁』は絵師を描いた短編集だった。
「日本史の中心には文化がある」というのが“葉室史観”だ。経済思想、政治思想で歴史の流れを表現するのは「意外に難しい」という。
「文化を理解していかないと、日本史の理解は行き届かない。直接的に文化の話をすると寄り添いやすいかなと思う」
そこで、本書では蕪村を直接的に描くのではなく、俳句や絵に託してその思いが語られていく。取り上げたのは後半生。画家、俳人として大成するのは五十を越えてからだからという。その姿を「晩成」と語り、自身の作家業と重ねる。中でも年がいってからの蕪村の恋愛に注目した。「恋愛してから絵も俳句もよくなっている。弟子たちに小糸と切れろ切れろと迫られ、別れたらすぐ死んでしまった。男の人の晩年の恋のあり方、いや、恋というよりはいのちのあり方を自分に引き比べて書いてみたかったんです」
そのいのちのあり方は「梅の影」でどう決着したのか。蕪村亡き後のいきさつは梅の目線で語られるが、小糸を選んだ蕪村を慕うあまりひがみがましい。しかし、ついに作中姿を現した小糸によってその間の事情が一変するクライマックス。さらに、ここにとどまらず、この短編の冒頭に掲げた辞世の句〈白梅にあくる夜ばかりとなりにけり〉を、月渓の〈白梅図屏風〉に昇華させた。梅と小糸が、〈逃尻の光り気疎き蛍かな〉の「気疎い光り」にやましさを感じていたのとは対照的に配置した、明るい光あるいのちの絶唱。人生の昇華を、芸術によって見せた手際の鮮やかさに心ふるえた。
とても多彩な恋模様と生きざまを堪能させてもらった。恋も愛も生きてこそ、とひしひしと感じる。もう一度、大魯の言葉をかみしめたい。──ひとが日々努力し、おのれの命を全うしようとする姿こそが美しく、愛おしいのだ──。
私が憧れるのは、最後の短編に描かれた月渓と行き暮れた梅が寄り添う愛だ。これはいたわり合う愛といっていいだろうか。残念ながら月渓や梅ほどに語れる人生(恋愛?)経験はないから、実現するのは無理かな。
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