2016.07.28 書評

新米同心vs大奥出身の尼僧
時代小説のあらゆる魅力がつまった逸品

文: 西上 心太 (評論家)

『老いの入舞い 麹町常楽庵 月並の記』 (松井今朝子 著)

『老いの入舞い 麹町常楽庵 月並の記』 (松井今朝子 著)

 江戸を舞台にした時代小説の分野に多くの才ある書き手が集まり、しのぎを削っている。その大群の中に埋没しないために、皆さまざまな工夫を凝らしていることはいうまでもない。中でも時代をいつに置くか、物語の中心となる場所をどこにするか、そしてどのようなキャラクターを設定するか。これらはストーリーを構築する以前に、きっちりと決めておかなければならない、小説を支える基礎に当たる部分だと思う。

 この三つは互いに関連している。一口に江戸時代といっても江戸幕府の開府以来、将軍は十五代を数え、二百六十有余年も続いているのであるから、どの時代を切り取るかによって、社会情勢や人々の考え方も大きく違ってくるだろう。

 舞台となる土地にしても時代によって大きな違いがある。たとえば元々は葺屋町(現在の中央区日本橋人形町付近)にあった吉原は、明暦の大火(一六五七年)がきっかけとなって浅草の北方に移転させられたことは、時代小説ファンならご承知だろう。ほとんどの時代小説で登場する吉原は、こちらの新吉原の方である。移転以前はまさに浅草田圃と呼ばれた田園地帯で、後年の賑わいとは無縁の土地であったはずだ。

 また官許の芝居小屋である江戸三座が、浅草の猿若町に移転させられたのは水野忠邦による天保の改革によってであり、天保十三年(一八四二年)以前は葺屋町に市村座が、隣の境町に中村座が、そして現在の歌舞伎座がある木挽町に森田座があった。さらにいえば、正徳四年(一七一四年)に起きた「大奥スキャンダル」の江島生島事件によって同じ木挽町の山村座が廃絶される前は、官許の芝居小屋は四座あった。

 また実在の人物を主人公にする場合はもちろんだが、架空のキャラクターを実在の人物と絡ませたいと思えば、自ずから作品の時代設定は決まってくる。

 長々と蛇足めいたことを書いてきたが、それというのも本書『老いの入舞い』の初読時に、三つの要素の設定の妙に感嘆したからにほかならない。

 この物語の中心となるのは麹町近辺だ。江戸の市井小説というと、日本橋、神田、浅草、大川(隅田川)を越えた本所、深川など江戸城から見て東側の、現在《下町》と呼ばれている地区が舞台になることが多い。そんな見慣れた土地ではなく、江戸城の西に位置する麹町という地を舞台にしたことにまず目をひかれたのである。

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老いの入舞い 麹町常楽庵 月並の記
松井今朝子・著

定価:本体750円+税 発売日:2016年07月08日

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