弔辞は苦手だ。一応、用意しておいた原稿を読み上げる。だが、そのうちにたいていは泣く。泣きじゃくることはないが、適当量の涙がでてきて、声がつまる。じじいが声をつまらせてどうなるんだ。見栄えのいいはずはなく、われながらあきれもし、もう弔辞なんかお断りだと何度も思う。
しかし本書を読み、弔辞は、第三者になって読む限りは結構おもしろいものだというのが発見だった。人さまの弔辞がなぜかくも心にしみるのかと不思議に思う。
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なんといっても迫力のあったのは、司馬遼太郎の、近藤紘一への弔辞だ。近藤は産経新聞の記者で司馬の後輩にあたり、2人はベトナム取材で行動を共にしている。司馬の筆力の沸騰点の激しさ、というものが読み手に直截に伝わってくる。
「君はすぐれた叡智のほかに、なみはずれて量の多い愛というものを、生まれつきのものとして持っておりました」「近藤君、君はジャーナリストとして(略)不世出の人でした」「君の精神とその仕事、さらには君の一顰一笑から片言隻句まで憶えつづけてゆくことが、私ども、君によって友人の仲間に入れて貰った者の、大きな財産だと思います」
司馬の「ほめちぎる文章」を読みながら、評論家小林秀雄の「批評とは人をほめる特殊の技術だ」という刺激的な言葉を思い出していた。小林は書く。「批評文としてよく書かれているものは、皆他人への讃辞であって、他人への悪口で文を成したものはない事にはっきりと気附く」。そうなのだ。批評の本質は悪口雑言を並べることじゃない。対象を正しく評価すること、その人の現に生きている「個性的な印し」をつかみとることだと小林は主張している。
弔辞というのは、その人の生涯を総括するほめ言葉を基本にする。日本人は人をほめるのが下手だとよくいわれるが、司馬の今回の文章はほめるということの技を克明に教えてくれている。
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