- 2013.11.07
- 書評
「究極のご飯の味」を教える
親にできる教育はこれしかない
文:佐藤 隆介 (作家・雑文処[鉢山亭]主人)
『長谷園「かまどさん」の美味レシピ ほっこり土鍋ごはん』 (伊賀焼窯元 長谷園 著)
ジャンル :
#趣味・実用
一汁三菜。これが日本の食卓の基本である。エラソウな懐石だって本来は一汁三菜にイロをつけたものに他ならない。まァ、そのイロのつけ方の見事さには無条件で最敬礼するが。
一汁三菜はその中心に米の飯があって成り立つ。ご飯というものがまずあって日本の食卓があり、食文化がある。そんな当たり前のことがいつの間にか当たり前でなくなってきた。
近頃はラーメン、パン、パスタ、それにギョーザでもあれば十分で、ご飯なんて久しく食べてないという人種が日本でも珍しくない。米の飯といえば回転寿司の酢飯だけ。
そういう時代になってしまったことの哀しい象徴が「箸遣いのひどさ」だろう。箸遣いが正しくできないと煮魚や焼き魚がちゃんと食べられない。だから彼らはナイフ・フォーク・スプーンで済む洋風の肉食に偏る。いや、ハンバーガーなら手だけあれば済む。
こうして日本の食文化の底が抜けてしまった。食糧自給率が4割を切り、米の消費量は減るばかりで、米作りを細々と支える農家も高齢化でもう明日はない……。そういう事態にもかかわらず日本の将来を預かって百年の計を立てるべき政治家が皆無。
だれがそういう政治屋を選んだか、といわれれば反論の余地なく、選んだ国民の自業自得というしかない。しかし、ただあきらめて嘆くだけというのも悔しい。
私自身はもう“高貴幸齢者”で、いままでひたすら旨いもの旨い酒だけを追いかけて生きてきた人間だから、明日死んでも何の悔いもない。しかし、息子やそのまた息子娘の世代のことを考えると、この先たとえ、2、30年で日本が滅びるとしても、せめてその2、30年間だけでも、まっとうに旨いものを食い、旨い酒を楽しんでもらいたいと切望する。
それには何も難しいことはない。伊賀焼の「かまどさん」という土鍋で炊いたご飯を食べ、「ああ、ご飯ってこんなに美味しいものなんだ!」と実感してもらえば、そこから日々の食卓への考え方が一変するはずだ。
本当の米の飯の旨さを知ると、そのとき初めて「一汁三菜」の意味が理屈抜きにわかり、味噌汁のうれしさや秋刀魚の塩焼きの真味がわかる。味噌や.油、あるいは最もシンプルな調味料の塩についても、究極の米の飯を味わうまではそれらの正しい選別は、まず不可能、と私は断言する。
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