しかし後日、湯川さんから構想を詳しく伺ったところ、そんな心配は杞憂にすぎず、面白い連載になるという思いは確信に変わった。
日本人初のエベレスト登頂、犬橇による北極圏1万2千キロ走破、北極点単独行とグリーンランド縦断など、輝かしい偉業をなしとげた植村直己。さらに口下手でとことん人を立てる温厚実直な性格があいまって、いまは誰からも愛された人物像が流布している。実際のところ、以前に植村直己を知る人に話を聞いたときはみな聖人君子のようにほめるばかりだった。
それは違う、と湯川さんは言った。
植村直己は確かに稀代の冒険家だった。しかし、単なるいい人だったわけではない。生まれながらの冒険家で、我も強く、悩みも迷いも深かった。彼はそれを表に出さなかっただけだ。植村直己の本当の魅力は心のなかに大きな闇を抱えていながらもそれを乗り越えていったところにこそある、と。
より生々しく記述された植村
いざ連載が始まり、湯川さんの文章を読むうちに、植村直己にどんどん引き込まれていった。そこには湯川さんにしか書けない植村直己がいた。そして、大幅に加筆された本書をあらためて読んだところ、その植村直己はより生々しくなっていた。
たとえば、第12章「公子さんのこと」では、家では1ヵ月に1度くらい、周期的に怒りを爆発させてはふと我に返り手をついて妻に謝る夫の姿が詳しく描かれる。第5章「冒険旅行に出る前に」は連載にはなかったもので、準備段階での驚くほど細かいメモが明かされる。冒険家は記録魔と湯川さんはいうけれど、それにしてもこの几帳面さは驚異的だ。さらに、エスキモーや西洋人のように犬を家畜と割り切れず、実に独特だった橇犬との付き合い方を紹介した書き下ろしの第10章「エスキモー犬」。いずれも植村直己という冒険家の特質と人間性の一端をよく表しているエピソードである。
すべてを読んだわけではないけれど、他人が書いた植村直己のもののなかでは、本書はもっとも彼の魅力と本質に迫った1冊ではないだろうか。今年は植村直己の没後30年。植村直己を知らない世代も多いに違いない。彼を知る人はもちろん、本書は植村直己を知らない人にもぜひ読んでほしい。いつか死ぬことを自覚できる意味では、人は誰しも冒険家なのだから。
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