不器用なせいか、小説の執筆は、いつも「単線」である。つまり一度に一作しか書けない。コラムや随筆なら、並行して何本でも書けるし、若い頃から、経営評論家として書くのに慣れていたが、小説ばかりはどうにもならない。
恐らく私の場合、小説の主人公が我が脳内を、我儘(わがまま)一杯にノシ歩いて、他の主人公の入り込むのを閉め出してしまうらしい。
昔、経営コンサルタント時代、東京近郊の、あるリゾートホテルの役員をやっていたことがある。この時、松本清張さんが執筆に来られるという部屋を拝見した。
林間の四〇坪弱の離れで、台所と風呂場のついた広い和室と洋間。そして出版社の担当者を待たせる、広い控え室まである豪華な建物だった。その支配人は言った。
「ここで、清張さんは、時代小説を和室で、それが終わると、部屋を変えて洋間で現代小説を書いておられたようですよ」
なるほど、なるほど。そういう手もあったのだ、と思い出して、作家になってから一度だけ二つの作品を別々の部屋で書くことに挑戦したことがある。
だが、やっぱりダメだった。頭の器の差かも知れない、と今は諦めている。
そんなことで、これまで長篇ばかりを手がけてきて、小説の主人公が「脳内に長期滞在」するくせがついていたから、短篇小説を書くのには、いささか心配だった。
主人公が入れ違いに、ごちゃごちゃになり、ケンカでもするんじゃないかと。
だが、「案ずるより産むが易し」。一、二ヶ月で、短篇一作が終わると、「バイ、バイ」とばかり気軽く出て行ってくれたので助かった。そんなことで割にスムーズに書き上げることができた。とは言っても、それは書く側のことである。どういう評価を戴けるのか、内心、今も不安である。
冒頭の「藤吉郎放浪記」は、そんな不安混じりの第一作である。もっとも、この構想自体は古い。一人前の作家になるには、行李一杯の習作が必要だ。そんなことを信じて書き貯めていたものの一部である。
習作当時、どうしても秀吉の出世前の遍歴を書かねばと思って模索していた。
事実、秀吉は、その出生の秘密を含めて謎だらけだ。だが、通説にいう「針売り少年」だったのは間違いなかろう。資本もない小さな男が、背負って売り歩く物は、小さいが付加価値の高い商品でなければならないからである。これが東海道を中心としたローカル語の習得と、買い手の女性たちとの会話を通じて、東海地方の情報通の男を作ったことは想像に難くない。
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