書評

児童文学翻訳今昔物語

文: 金原 瑞人

『ジャングル・ブック』 (ラドヤード・キプリング 著/金原瑞人 監訳/井上里 翻訳)

『ジャングル・ブック』 (ラドヤード・キプリング 著/金原瑞人 監訳/井上里 翻訳)

 先日、古い書類箱を整理していたら、「赤い鳥」のコピーが出てきた。「赤い鳥」は鈴木三重吉が大正七年(一九一八年)に創刊した児童雑誌で、芥川龍之介の「杜子春」や新美南吉の「ごん狐」、また西条八十や北原白秋の童謡など、多くの名作を産んだ。

 ところで、出てきたコピーは大正十年(一九二一年)十二月号で、その表紙にはキノコの上であぐらをかいている芋虫(あぐらのかきかたが楽しい)がパイプを吸っていて、それを下から女の子が見あげている。そう、『不思議の国のアリス』の一場面なのだ。

 この号には鈴木三重吉の「地中の世界(つゞき)」が掲載されているのだが、それが『アリス』の翻案。最初の部分を引用してみよう。

 すゞ子(こ)ちやんは體(からだ)がどん〳〵大(おほ)きくなつて、兎(うさぎ)ちやんのお家(うち)の戸口(とぐち)が出られないので、ずゐぶん困(こま)つてゐましたが、そんなわけで、ふいに又(また)どん〳〵小(ちひ)さくなつて來(き)たものですから、それは〳〵大喜(おほよろこ)びで、早速(さつそく)飛(と)び出(だ)しました。

 アリスは「すず子ちゃん」になっていて、このあとにでてくるトカゲには「勘兵衛」という名前がついている。

 文体といい、登場人物(動物)の名前といい、じつに古々しく、ほほえましくて、読みながらついつい笑ってしまう。

 鈴木三重吉の翻案はさておき、日本で初めて単行本として出版された『不思議の国のアリス』の翻訳は、明治四十三年(一九一〇年)、丸山薄夜訳の『愛ちゃんの夢物語』といわれている。冒頭はこんな感じ。

 愛(あい)ちやんは、姉(ねえ)さんと堤(どて)の上にも坐(すわ)り勞(つか)れ、その上(うへ)、爲(す)ることはなし、所在(しよざい)なさに堪(た)へ切(き)れず、再三(さいさん)姉(ねえ)さんの讀(よ)んでる書物(ほん)を覘(のぞ)いて見(み)ましたが、繪(ゑ)もなければ會話(はなし)もありませんでした。愛(あい)ちやんは、『繪(ゑ)もなければ會話(はなし)もない書物(ほん)が何(なん)の役(やく)に立(た)つだらうか?』と思(おも)ひました。

 欧米の人名になじみのなかった時代の翻訳や翻案では、よく日本人の名前が当てられた。ちなみにこの翻訳の翌年に出た丹羽五郎の『長篇お伽噺 子供の夢』では、アリスは「綾子さん」になっている。

 さらに翌年には永代静雄の『アリス物語』が出版され、ようやくアリスがアリスになったものの、さっき書いたように、その後も鈴木三重吉は「すず子ちゃん」にしているし、鷲尾知治は『まりちやんの夢の国旅行 ふしぎなお庭』(大正十四年)というタイトルをみてわかるとおり、「まりちゃん」にしている。「アリス」という名前がほぼ定着するのは昭和に入ってからのようだ。

 日本における『アリス』の翻訳と翻案は、ほかの海外作品とくらべると非常に数が多い。それらを追っていくと、日本語の移り変わり、日本人の意識の変化、欧米の文化の浸透度の推移などがわかってとても楽しい。

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ジャングル・ブック
ラドヤード・キプリング・著/金原瑞人・監訳/井上里・翻訳

定価:本体820円+税 発売日:2016年06月10日

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