21世紀を迎えた今、私たち人類、ホモ・サピエンスは地球上の至るところに暮らしている。これほどの繁栄を謳歌する人類も、祖先をたどっていくと、20万年前にアフリカに暮らした数千人の集団に行きつくと言う。そんな小さな集団がどのようにして世界中に広がっていったのか。人類はなぜここまで繁栄することができたのか。医師であり解剖学者でもあるアリス・ロバーツ氏が、イギリスの公共放送BBCとタッグを組み、この壮大なテーマに取り組んだのが本書である。同名のテレビドキュメンタリー(「The Incredible Human Journey」)とともにイギリスで大きな反響を呼んだ。テレビシリーズは、イギリスのほか、ヨーロッパ各国、アフリカ各国、オーストラリア、カナダなどで放送されている。
日本では2013年、NHK Eテレの「地球ドラマチック」で放送された。「地球ドラマチック」は海外の優れたドキュメンタリーを紹介する番組で、驚きと興奮に満ちた“世界の姿”を日本の視聴者、特に子供たちに届けるのがコンセプトだ。当時、この番組の制作統括をしていた私は、大人が見ても楽しめる本格的な知的エンターテインメントこそ、子供にも楽しんでもらいたいと考えていた。このBBCのドキュメンタリーは、まさにうってつけの作品で、一も二もなく飛びつき、放送を決めたことを覚えている。放送は、期待通り大人から子供まで幅広い層に支持され、楽しみながら最新の科学的知識が得られると好評をいただいた。
人類の“遙かなる旅路”をたどるこのシリーズは、私たちをアフリカから南米まで世界各地へと誘(いざな)ってくれる。アフリカのカラハリ砂漠では、太古から伝わるとされる不思議な言語を話す狩猟採集民族を訪ねる。彼らの言葉には、舌を鳴らす独特の音が使われている。狩りの際には、獲物に気づかれないよう、この音だけで意思の疎通を行うことができるという。こうした言語の起源は、ごく初期の人類にまでさかのぼれるというのだから、彼らが文化を伝えてきた時間軸の長さにただ圧倒される。
イスラエルでは、洞窟で発見された10万年前のものとされる人骨を目の当たりにする。丁寧に埋葬され、副葬品も一緒に納められていたということで、これほど昔に人々が死後の世界を信じていた可能性を示している。しかし、そうした高度な文化を育みながら、彼らはこの地で死に絶えてしまった。何が彼らを滅ぼしたのだろうか。私たちが今、この世界で生きているということは、いくつもの幸運な偶然が積み重なった結果なのだと思い知らされる。
世界で最も寒い場所の一つである北シベリアで出会うのは、トナカイを遊牧して暮らす人々だ。彼らはトナカイが真冬でも外を歩き回っているのを見て、その毛皮を身に着け始めたという。自分たちを可能な限り、動物に近づけるのだ。熱帯のアフリカに生まれた人類がどうやって極寒の地に歩みを進めていったのかを教えてくれる。
中国南部の桂林では、1万2000年前のものとされる陶器の破片を目にする。世界で最も古い陶器の一つである。私たちの祖先がどのように陶器を作っていたのか、当時と同じ原料、同じ方法で再現してみる。原料の混ぜ方や火加減をうまく調整しないと陶器は割れてしまう。1万2000年前の人たちも同じ苦労をしたのだろうか。
まるでタイムカプセルのような不思議なタールの池があるのはアメリカ・ロサンゼルス。粘つく液体と格闘しながら古生物学者たちが掘り出しているのは、遠い昔にこのタールの池にとらわれ非業の死を遂げた動物たちの骨だ。中には、マンモスや巨大な地上性ナマケモノなど、すでに絶滅してしまった種もある。マンモスの頭骨に石器がささったものがアメリカの他の場所で発見されているというのだから、やはりマンモスを絶滅させたのは人類なのかと想像を広げてしまう。
アメリカ大陸で発見された中で最も古いとされる頭骨をブラジルに見に行く。頭骨に肉付けし生前の顔を再現してみると、アメリカ先住民とは大きく異なる顔立ちが浮かび上がってくる。むしろオーストラリアの先住民アボリジニを思わせる風貌だ。人類はいつどうやってアメリカ大陸に渡ってきたのだろうか。
こうして世界中を旅しているうちに、私たちはいつのまにか、人類が過ごしてきた20万年という途方もない時間も旅している。時空を超えた不思議な感覚を味わえるのが、このドキュメンタリーシリーズの最大の魅力であろう。
一方、現生人類がすべてアフリカに起源を持つとする「アフリカ単一起源説」だけでなく、旧人類がヨーロッパやアジアに拡散した後、それらの地域でそれぞれ現生人類に進化したとする「多地域進化説」についても考察を加えている。「アフリカ単一起源説」をとる著者は中国を訪れ、「北京原人」と呼ばれる旧人類ホモ・エレクトスが中国人の直系の祖先だと主張する学者と議論を交わす。その主張の根拠となっている「北京原人」の頭骨の形状などを自ら分析し、「多地域進化説」の当否を冷静に検証する一方、相対する中国人学者への敬意を決して忘れない著者の姿が印象に残る。
また、ヨーロッパにたどり着いた現生人類が、旧人類ネアンデルタール人と出会ったのか、出会ったとしたらどういう関係を結んだのかについても迫っていく。中でもネアンデルタール人と現生人類の間で混血が起こったのかどうかについて、混血の証拠とされるルーマニアで見つかった頭骨の形状を分析していく過程は、なんともスリリングだ。私たちの仲間が同じ時代に地球上に存在し、交配さえ行われた可能性があるということに、ロマンをかきたてられる。
本書を読んでいて繰り返し頭をよぎるのは、私たち現生人類が決して特別な存在ではないということだ。私たちは地球上に現れては消えていく数えきれない生物のうちの一つにすぎない。ヒト族(ホミニン)としても、複数存在した種のうち、たまたま生き残っている一つにすぎないのだ。そんな私たちが、祖先が20万年という長きにわたって続けてきたこの旅を、この先さらに10万年、20万年というスパンで続けていくことはできるのだろうか。本書では、現生人類が生き残ることができたのは、脳を発達させ、高度な技術や芸術など、「文化」を育んだからだとしている。それでは、私たちがこれからも旅を続けていくために必要とされる「文化」とはどんなものだろうか。それはきっと、私たち人類が地球上の無数の生物の一つにすぎないということを自覚し、そうした自覚に基づきながら築いていく「文化」なのではないだろうか。こうしたことに気づかせてくれる本書が、文庫本となり広く一般に読みうる形となることを心から喜びたい。子供の世代、孫の世代が本書を読み継いでいくことを切に願ってやまない。
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