老い、病み、逝った父親を持っている人なら、誰でも時々みる哀しい夢。亡き父がいる。決まって元気な時の姿ではない。病室にいて娘の自分の来るのを待っている姿。衰弱し、一まわり小さくなった背をかがめ、娘が入ってくると嬉しそうに瞳を輝かせる姿。
ごめんなさい、と思う。もっと色々してあげられる事があったのに。毎日行けばよかった。毎日話せばよかった。会いたい会いたい、お父さん、お父さーん。そこで目が覚める。のどが塩からい。
そんな言うにいわれぬ切ない想いをつまびらかに言葉にしたのが、この『沈黙のひと』だ。多くの娘たちが胸に秘める哀しみの扉をひらき、女性にとっての原初の異性でもある父親への慕情を歌いあげる、これはすぐれた恋歌、挽歌である。
二〇〇九年三月中旬、風のつよい日曜日。晩年の四年余をそこで暮らし、八十五歳で逝った父の遺品を整理するために「私」が、川崎市にある介護付老人ホーム「さくらホーム」にタクシーから降り立つ場面より、この長編小説は始まる。
「私」は某出版社につとめる独身の文芸編集者で、知的でさばけたクール・ビューティー。小池文学のファンにはおなじみの、都会で自立して生きる魅力的なヒロイン像だけれど、今回の彼女は「定年まであと少し」の五十代。そこがちがう。
恋に身を灼く年頃もすぎ、かっての恋人たちや親との関係性をふくめての人生全般を見渡し、改めて己が孤独を思い染む透徹した視野をもつ。もちろん「私」は、作者の自伝的分身でもある。
ホームの父の遺品――枯れた鉢植え、髭の詰まったシェーバー。哲学書や旅行書、詩集。それらを異母妹たちと整理する。その中に愛用の二台の古いワープロがある。晩年の父はパーキンソン病だった。指も口唇ものども震え、声が出なかった。代わりに限界がくるまでワープロのキーを打ち、意志を発信していた。
そんなものどうするの、と怪訝な顔をする異母妹をしり目に、「私」は父の残した手紙とワープロを持ち帰る。今さらながら父のことが知りたい。父の内面を知りたい。
父は母を愛しながら、魔がさしたような情事のために母と離婚し、「一番いとおしい」娘と別れた。「私」は小さな頃から母子家庭で育った。母はおおらかな人だったので父を恨む事はなかったが、その後の父の人生とは殆ど関わらずに生きてきた。
なのに難病をわずらう父をホームに訪ねるうちに、思いがけない濃い愛情が泉のように湧き、自分でも驚く。「またすぐに来るからね」と痩せた父を背後から抱く。病室を出たとたん、また駈け戻りたくなる。わざとふざけて「ジャーン!」と父の好物を取り出す。それまで子を捨てた者として自制していた父も、声も出せずワープロも打てなくなった彼のために娘が考案した手づくりの「文字表」を、震える指で必死にさし、まず「え」「り」「こ」と娘の名をつづる。
それぞれの人生の大半を離れて生きてきた父と娘は、いのちの果ての季節の中で固く結びつき、寄りそって試練をしのぐ。
なぜ人間は老い、病むのか。花の盛りの後に苦しみを受けて死ぬのか。その受苦に意味があるとしたら、たとえばこういう事なのか。作者が自ら問いかけているような父娘の風景である。