想像や知識、視覚だけでは生み出せない「官能」を目の当たりにして、私は圧倒された。そこで描かれた色彩の美と、それを纏う女たちと呑まれる男たちの物語に酔った。
私自身もこれからも京都の物語を描き続けるならば着物に実際にふれねばならぬという衝動にかられ、近所の呉服屋で着付けを習い、そのうちにデビューしてから三冊目の本が思いがけずに売れたので、思い切って着物を作った。
そうして呉服屋で正絹の反物を生まれてはじめて手にして、懐かしさと切なさが込み上げてきたのだ。
あとになってつらつらと考えると、あの正絹の感触は、初めて裸の男の胸にふれたときと同じなのだ。それまで見たことのなかった、普段隠されている男の胸板をさわったときに、その滑らかさと吸い付くような肌の質感が、自分の指の腹から全身にいきわたる感覚に驚いた。もっと無骨で、ふれると跳ね返されるような堅いものだと想像していたのに、全然違った。
男の肌は、指でふれるだけではなく、唇をつけて柔らかさも匂いも味わいたくなるほどに、私に馴染んだ。きっと私は好きになる、溺れてしまうという予感がした。
とすれば、正絹を身に纏い包まれたいと瞬時に望んだのも納得がいく。正絹の、誰でもない私だけのためにつくられた着物が出来上がり、手に入ることを想像すると気分が高揚した。
同時に着物は怖いと思った。魅入られてしまうと、自分を抑えることなどできなくなるのではないか、と。欲しいと願うと、手に入るまで身悶えして苦しむのではないか、と。我が身のものになれば、もうそれなしでは生きていけなくなるのでは、と。
そういえば、あの本は、まさにそういう物語だった。
私が着物に触れてみようと決意するきっかけになった、『花酔ひ』という小説は。
この物語は着物をきっかけに出会った二組の夫婦――東京の呉服屋のひとり娘・結城麻子とその夫でサラリーマンの小野田誠司と、京都の葬儀屋の娘・桐谷千桜と、その会社で営業として勤める婿養子の桐谷正隆の四人の心と身体がもつれた糸のようにからみあう。
お互いの夫婦の間では封されていた快楽の蓋が開き、四人は己の理性や意思で留めることなどできない、大きな波に巻き込まれ流されていく――極楽でもあり、地獄でもある世界へ。
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村山由佳『花酔ひ』
2012.02.10特設サイト -
性愛の“神”が微笑むとき
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世界の「果て」までの旅
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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