書評

性愛の苦しみと快楽を呼び覚ます物語

文: 花房 観音 (作家)

『花酔ひ』 (村山由佳 著)

 京都という街は、墓場のようだなと時折思うことがある。この国の歴史の中で、権力争いに敗れた者たちの骸がさらされた鴨川沿いを歩くとき、未だにその残骸が存在しているのではと想像してしまう。権力者たちというのは、常人には恐れを抱かせるほどの強い欲望を滾らせた者たちだ。その矛先であり、多くの骸が眠るこの街は、欲望の墓場だ。けれどその激しい欲望はおとなしく土に埋もれるはずもなく、幽霊のように未だに漂い、現代に生きる私たちに纏わりつく。

 身体と心の奥底に眠り、理性で抑えつけ、普段は目を背けている背徳的な魂を、解き放そうと。

 この街で、男も女も身につけたがる、あの絹の感触が裸の人肌と同じであるのは、記憶を呼び覚まそうとしているのだ。

 男と寝たときの、痛みと苦しみの伴う全身の毛穴から溢れる悦びを。女とひとつにつながったときの潤いと暖かさと懐かしさを。

 恋という人間の感情を最も揺さぶり雁字搦めにする甘い毒薬を。

 四人の男女は、出会いにより己の内から湧き出る自らの欲望の深さと強さに戸惑いながらも従わずにはいられない。これほどまでに欲していたのかと、恐れを抱きながらも。

 けれど、夫婦ではない相手との背徳的な性行為がもたらす罪悪感が存在する限り、溺れれば溺れるほどに果てが近づいてくる。

 果てにあるものは、死か、生き続けることか。死ぬことにより性愛が成就する物語は古来より多くあるが、想いを秘めたまま生き続けるほうが罪は重く、記憶は一生消えない。

 この者たちの辿りつく「果て」は、生か死か――。

 恋に狂い快楽に溺れる人間は滑稽で時に醜悪で、人から嘲笑されも侮蔑されもする。

 何もかも失っても、辿りつくのは所詮、地獄だ。世の中の決まりごとから欲望をはみ出させた人間は、罰せられるのだから。

 結城麻子が、桐谷正隆と最初に出会ったときに訪ねた京都の貴船神社でひいたおみくじには、こう記されていた。

「恋愛――おのれの心から苦しむなり。秘めよ」

 罪を背負い痛みを感じながらも生きねばならぬのなら、その痛みすら被虐の悦びにしてしまえばいい。そうすれば、男も女ももっともっと艶を帯び美しくなる。

 人肌になじむあの美しい織物を身にまといながら、恋と情欲を秘めて苦しみをも快楽にして生きるしかない。

 性的な快楽に関わらず、衣食住さえ足りていれば人間は「悦び」がなくても生きていける。

 けれどたとえ痛みをともないはしても「悦び」のない人生を送るなら死んだほうがましだ――この本を読んでそう思うことができたら、川面に浮かぶ花びらのように流れに身を任すしかできず、どこへ辿りつくかわからないような恋に落ちて苦しんでも、きっと少しばかりは救われるはずだ。

 この物語は、私がふれたあの柔らかい絹織物と同じだ。

 ふれると肌の隙間から入り込み、懐かしい記憶と甘い予感を呼び覚ます。

 生きていることを思い出させてくれる、あの苦しみと快楽を。

花酔ひ
村山由佳・著

定価:本体600円+税 発売日:2014年09月02日

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