当馬の挑戦は三つある。ひとつは先述の通り、主演映画を制作すること。もうひとつは、がんを公表すること。映画の制作費集めのための話題づくりであり、自分の病気でさえ売り物にするのかと言われそうだが、そんなことは本人も周囲も百も承知。彼らはそれだけ命がけで映画を作ろうとしている。しかもそこには、がんに対するイメージを変えたいという思いもある。本書でしばしば言及される「がんは恥ずかしい」という感覚は、私には未知のもので驚いた。だが、実際にがんと分かると退職を余儀なくされたり、住宅の賃貸契約ができなくなったりする人がいるのだと知り、ぞっとした。国内の死因のトップであるくらいがんの患者は多いというのに、罹ったら社会性が失われかねないというのはもはや他人事ではない。当馬は、そうした風潮にも風穴をあけようとする。
三つ目の挑戦は、これまた難しい。それまで三人の女性との恋愛を楽しんでいた彼だが、病を知って離れていく女性もいて孤独を実感せざるを得なくなる。やがて本当に愛せる人の存在に気づいた時、彼にはまた新たな願望が芽生える。人が死ぬ前に何かを残したいと思った時、究極の“何か”とはつまり、こういうことなのだろう。そんなにうまく愛せる人に出会い、その相手とうまくいくものか、と斜に構えることなかれ。本書は当馬が出演してきた作品同様、現代のおとぎ話としての側面も持っているのだ。
この三つの生産的な挑戦に加え、軽やかさの要因としては、当馬自身の死との向き合い方もある。実は私には、死を扱ったフィクションにおいて、つねづね不満を抱いていることがある。大事なので重ねて言うと、あくまでもフィクションにおいて、である。それは、余命宣告されたり難病が発覚したりした時に、本人や周囲の人が嘆き悲しみながら「なぜ自分が」「なぜ○○(人物の名前)がこんな目に」といった類の台詞を言う場面があること。そのたびに、「え、他の人なら不幸になってもいいの?」と白けてしまう。もちろん現実の世界で、悪意もなく思わずそうつぶやくことはあるだろうし、実際なぜこんな善人がひどい目にあうのだ、と思う現実は山のようにあるわけで、そう口にする人のことを責める気はまったくない。ただ、フィクションの作り手が、泣かせる場面でこの常套句を無神経に使うところが、私は気にくわない。
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