──以前、御自身のことを「中国おたく」と表現されていましたので、今日は先生がどのようにして「中国おたく」となられたのか、伺いたいと思います。 そもそも中国に関心をもたれたのは、いつごろ、どのようにしてだったのですか。
興梠 やはり、商社で中国チームに配属されたことが大きかったと思います。大学時代は、経済学部で中国とは全く縁のない世界でした。毛沢東や『三国志』にも関心がありませんでした。ドイツ語でマルクスの『資本論』を読まされた。むしろ国際的な仕事をしたいと思い、英会話に熱中していました。商社に就職し、留学で中国語を学び、商談の通訳、工場視察、出張などを通して中国の現実に直面し、強烈な問題意識と関心が芽生えていきました。
──では大学では……。
興梠 研究者になるつもりはなかったので、部活やバイトに忙しかったです。ただ、当時の経済学部はマルクス主義が中心で、やたらとその手の本を読まされた記憶はあります。『資本論』の面白さはわかりませんでしたが、中国を研究するようになってからは、とても役立っています。不思議な縁です。その頃は、自分が共産主義社会の研究をすることになるとは思ってもみませんでした。
──卒業後、三菱商事で対中国のお仕事をされるわけですが、当時の日中関係や、印象に残るエピソードなどをお聞かせください。
興梠 会社では中国ビジネスのABCを叩き込まれました。帰国していきなり高額の商談通訳をやらされ、冷や汗の連続でした。広州交易会の担当として改革開放直後の広東に滞在しました。日本人のお客さんが大勢来るので、ホテルの部屋を確保するのが大変だった。中国人がホテルに入れず、ガラス越しに中をのぞきこんでいたのを覚えています。スーツを着て通りを歩いているとジロジロ見られる。夜、ホテルから街を見ると真っ暗でした。今の繁栄した中国とは隔世の感があります。ちょうど中国が開放し始めた頃で、現場は熱気に満ちていました。まだ若造なのに自動車からカメラまでいろんな業界の通訳をさせられ、中国の幹部を連れて工場視察もした。出張をひかえた夜は、準備で徹夜しました。商社で鍛えてもらったおかげで、モノとヒトの流れから中国を冷静にとらえ、グローバルな視野で見つめる大切さを認識することができました。