「愛国者」を自任する20代の青年を飲み屋で取材した。
彼は大声でまくし立てた。
「在日(コリアン)は恥知らずだ。犯罪者ばかりだ。この日本から福祉も秩序も奪い取る。ただの侵略者じゃないか。一人残らず追い出すべきだ」
彼にとって在日コリアンは「敵」以外の何者でもなかった。荒唐無稽な妄想と、考え得る限りのあらゆる否定的価値観が、頭の中に詰め込まれている。
だから彼は「闘っている」のだという。ネットで在日コリアンを貶める情報をかき集めては、それをコピーして貼り付ける。そんな作業を繰り返し、ときに「在日排斥」を訴えるデモにも参加する。彼のいびつな「愛国心」は、見事なまでに「排外主義」へと回収されていた。
いま、自分が立っている場所は、あるべき日本ではないと考えていた。彼にとって世の中のあらゆる理不尽は「敵」がもたらしたものだった。「在日が日本を支配している」といった無責任なネットの言説でさえ、自らを「奪われた側」だと思い込んでいる彼にはもっともらしく響く。世の中の不条理を詰め込んだブラックボックスをひもとく鍵として、「在日」や「外国人」が位置づけられるのだ。
――これは彼だけの話ではない。在日コリアンなどの外国籍住民を略奪者に例えるシンプルで支離滅裂な極論は、しかし社会の一部に大きな影響力を与えている。さらにその一部が街頭で隊列を組む。
「在日を追い出せ」「叩き出せ」「殺せ」。日章旗やハーケンクロイツを振り回しながら、聞くに堪えない罵声を放つ“差別デモ”は全国各地で展開されている。
そうした光景を、私はもう何年も網膜に焼き付けてきた。
何度、取材に通っても慣れることはない。
握り拳に力が入る。憤りでからだが震える。ヘラヘラ笑いながら「ゴキブリ朝鮮人!」などと叫んでいる者を見ると、殴りつけたい衝動に駆られることもある。
その場を離れても、何かが壊されてしまったような感覚が抜けない。人間の、地域の、社会の大事なものが汚されてしまったような気持ちにもなる。
そして何よりも、被差別の当事者は、さらに大きな傷を抱えることになる。