二〇〇一年に百四歳の天寿を全うした母から聞いたニューヨークのエピソードも、興味深い。
一九一九年、最初の結婚でまだ乳飲み子をふたり抱えていた母が、大正デモクラシーに燃え労働運動を学んでいた当時の夫に「これからは女も手に職を持たなければ生きていけない時代になる」と強く促され、二十二歳のとき息子たちを実家に預け、一年間ニューヨークYWCAバラード・スクールに留学した。ブロードウェイのはずれのアパートでは、毎晩ゾロゾロと南京虫がはって痒くてつらかった、と。交通がまだ発達していない静かな東京から来ると、ニューヨークという巨大な都市は耳がおかしくなるのではと感じるほど騒音のるつぼで、重苦しい空気だった、と。秘書学コースの勉強には、たったひとりの日本人として恥ずかしくないよう一心に励んだ、と。
そんなある朝、雪で凍った道でスッテンと転び尻もちをついたなと思った瞬間、見知らぬアメリカ人男性が母を支えてくれていた、と。乗り物でもチャンと腰かけるまで誰か男性が必ず荷物を持ってくれている。ニューヨークには、どんな女性に対しても何気ない男性のサラリとした優しさが溢れていたそうで、寂しくて泣きたい気持ちの母はそんな自然体のふれあいに心が和んだ、と。
母が大好きなニューヨークのエピソードをもうひとつ。
一八五八年、日米修好通商条約が締結され、江戸幕府はアメリカに使節団を派遣することになった。二年後、勝海舟、福沢諭吉らが渡米。その時の話だと思うが、ブロードウェイを武士たちがチョンマゲにハカマ姿でパレードをしたという。彼らの姿を一目見ようと道の両側に五十万人ものアメリカ人が殺到する中を、ニコリともせず、まっすぐ前を向いて歩いて行ったとのこと。言葉は通じなくても、その武士たちに表れた毅然たる態度、品格に、ニューヨーカーは恐れ入って、尊敬したという。母が生まれる数十年前の出来事だが、この話をするとき、日本人が日本人としての誇りを発揮していた頃のエピソードとして思い起こすらしく、いつも愉快そうだった。
光世さんと私の母を会わせたかった。さぞやユーモアに満ちた笑いの絶えない、そして、優しく建設的なふれあいだっただろうな……。
光世さんの「ニューヨークの魔法」シリーズは、この後も続くに違いない。続編とともに私が心待ちにしているのは、岡田光世「ニューヨークの魔法」シリーズ・カラー&モノクロ写真展。彼女の撮った何気ない写真は、シリーズの美味しいスパイスだ。ぜひとも近い将来、実現してください!
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