「文學界」という雑誌とは長い付き合いで、読み始めたのはもう三十年以上も前、医学部進学課程の学生だったころからだ。
専門課程への進学に際し、ドイツ語の試験で追試となり、口頭試問に臨んだが、授業に出ていないのだから答えられるはずもなく、仕方ないので教官室の本棚にあった「文學界」の最新号の小説について試験官の助教授と語り合うだけで退室せざるを得なかった。
留年するつもりはなく、東京にもどってもとより興味のあった文科系の勉強をやり直そうと決め、下宿の部屋の掃除も終えたところに追試合格の報が届き、理由を考えたが、「文學界」のご利益以外に思いつかなかった。結果はありがたく受け入れ、進学して医者になり、今日に至っている。
そういう深い因縁のある雑誌だから、新人賞には特に注目し、可能なかぎり読んできた。えっ、こんなんでいいのかよお、と驚いてしまう作品が受賞しているのを目にしたときから、だったら自分で書いてやろうじゃねえか、と小説書きに手を染め、よき編集者の指導を賜って受賞者の一人になれた。
そんなわたしが、これは書けないなあ、と脱帽するしかない新人賞受賞作品はいまのところ四作ある。木崎さと子「裸足」、田野武裕「浮上」、青来有一「ジェロニモの十字架」、そしてこの「介護入門」だ。
書き手となってからは、書けないなあ、の嘆息は即、負けたなあ、との、古典を含む優れた作品を読んだあとに必ず感じるすがすがしい敗北感を生み出し、しばし、全身が気持ちのよい興奮で満たされる。
食うに困らず、小学生相手の家庭教師のアルバイトと、仲間たちとのバンド活動でのみ社会と接点を持つ三十男が、外傷で下半身不随になったおばあちゃんの介護をする。大麻を吸いながら、介護そのものに己の存在価値を見出そうとする。
内容の濃い純文学作品のあらすじはそっけないものだが、これも例外ではない。しかし、ありふれた介護問題が週刊誌や健康雑誌の特集や素人の手記ではなく、きちんとした文学作品になったとき、どれほど多くの深い内実を読者に訴えることができるのかという点で、純文学の可能性への認識を新たにしてくれる一作である。
はじめて読んだとき、すぐに思い浮かんだのはレベッカ・ブラウンの『家庭の医学』との比較だった。末期癌の母親を看取る娘の視点から書かれた手記で、客観的な記述が澄んだ印象を与える「介護文学」の佳作だが、抑制の効きすぎた文体の向こうに、制度だけは完璧だが、どこか無機質なアメリカの介護事情が寒々と垣間見えてしまう。
一方、「介護入門」は制度の不備を情で補う典型的な日本の介護状況を、制度の改革を声高に叫ぶでもなく、切々と他者の情に訴えるでもなく、あくまでも自分自身の生き方、この世での在り方としてとらえ、「俺」は内省を重ねる。
寝たきりのおばあちゃんを抱き起こすときの腰の痛みを通して、からだから発せられる本物の言葉を探そうとする。小ざかしい借り物の成句や、おざなりな介護行為には徹底して反発する。作品全体に貫かれるこのきわめてひたむきな姿勢が、猥雑な描写とは裏腹の清潔な読後感を与えてくれる。大麻は小説のなかで状況を透視する装置としてうまく使われており、読者もそこで出口の見えない介護生活をいっときなりとも俯瞰できる。
医療の現場では介護者たちの言葉にならぬ悲鳴が毎日聞こえてくる。そういう無告の人たちにぜひ読んでもらいたい本だ。ふだんあまり本を読まない介護者にとっては、文章の密度が濃いので、短いが、きちんと読了するのはきつい作品かもしれない。「俺」の不道徳かつ反社会的な態度に目を背けてしまうかもしれない。そんなときは、まず最初に、全部で四箇所出てくる「介護入門」と称する標語を読み、納得したら少しずつ地の文を読んでゆかれたらいい。
誠意ある介護の妨げとなる肉親には、如何なる厚意も期待するべからず。
派遣介護士の質は、人間の質である。
己が被介護者にとって何の血の繋がりもない赤の他人だと仮に思え。
無言で介護するべからず。云々。
寝たきりの父親を、家族の生活空間とは離れた部屋に置き去りにしたまま、つけっぱなしのテレビだけを置いて、長男の義務として冷ややかに介護した体験があるくせに平気で医療現場に立つわが身には、痛烈な一発をくらわされた作品だが、そのことに感謝したくもなる。すでに親が死んでいる安全地帯でパンチを受けたって痛いはずはないだろうと現役の介護者に言われればそれまでだが、文学の鉄拳はじんわりボディにきくのだ。
芥川賞に関しては作者の将来性などについていろいろ話題になったようだが、賞は作品に与えられるものであり、作者の今後については作者以外のだれも責任を取らなくていいのだから、この力のこもった一作の受賞は当然すぎるほど当然である。
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