「つらいです」
「不安です」
「どうなるか心配でたまりません」
「死のうかなと思うて、ええ、何度も泣きました……」
まさかこんな言葉を認知症の人から聞くとは思いもよらなかった。
普段、私たちは他者を評価するとき、無意識に自分と同じ「健康」な人を基準に判断している。それは認知症の人に対しても同じで、相手に声をかけて返事がなければ、「ああ、この人は何を言っても分からなくなった」と判断して話しかけることもなくなる。あるいは喜怒哀楽を表さなければ、感情もなくなったのかと思うかもしれない。
ところが、それは大きな間違いだったのだ。認知症の人も私たちと同じような感情を持っていることが、冒頭の言葉から伝わってくる。
私が認知症に関心をもったのは兄がきっかけだった。もう二〇年以上も前だ。若年性認知症(六五歳未満で発症した認知症)と診断されたのである。それを聞いたときは返す言葉がないほど動転してしまった。それでも会話ができるうちは、兄と近所を散歩したり、兄が好きだった三橋美智也や春日八郎といった懐メロのCDを探し出しては一緒に聴いたりしてみた。やがて症状が進行し、晩年になってほとんど言葉を発することができなくなると、話もできなくなったと思い込んだのだろう。私の足は自然に遠のいていった。
精神科医の小沢勲さんは〈ぼけてしまえば、本人は何もわからなくなるのだから幸せですよね、まわりは大変でしょうけど〉と、二〇年以上前に書いているが※1、その当時の私はまさしくそう考えていたと思う。
「あのときの兄は本当に何も分からなくなっていたのだろうか」
そう思ったのは何年か経ってからである。余命いくばくもないがん患者が、わずかに指先を動かして必死に何かを伝えようとしているのを見たときだ。認知症の人はどうなんだろう? 症状が進行すれば本当に何も分からなくなるのだろうか。そう思うのは認知症に対する私の誤解と偏見ではないか。そしてこう思った。もしそうであるなら認知症の人の心の裡を知りたい──。
当時の関心は、兄と同じ若年性認知症だった。高齢者の認知症に関心がなかったわけではないが、家族同伴でなければ会うのがむずかしかったこともある。かたわらで家族が代弁してくれるので話を聞くには楽なのだが、やはり認知症の人から本音を聞きたかった。その点、若年性認知症の人は単独でも語ってくれたのである。
彼らは一様に「認知症になっても、私は私で変わらない」と言った。人格が崩壊してしまうかのような認知症観に染まっていた私からすれば、これだけでも衝撃だった。それでも私は、高齢者の認知症はまた別だと考えたのだ。声をかけても反応がなく、自ら話すこともできなくなったら、「私は私で変わらない」なんて言えないだろう、と。
それを変えたのは出雲のデイケア施設「小山のおうち」だった。
ここを利用するのは重度認知症の高齢者たちである。若くて元気な若年性認知症の人とはまったく違っていた。ここでは認知症の人たちがたくさんの「手記」を書き残していて、それをきっかけに、私は彼らの声に耳を傾けるようになった。
重度の認知症の人にインタビューするなんて、もちろん初めてである。かといってマニュアルがあるわけでもない。私にできるのは、そこで働いているスタッフを観察させていただきながら、自ら試行錯誤することだけだった。
出雲から始まって、東京、大阪、岡山、静岡、岐阜の各施設を介して重度認知症の高齢者たちにインタビューを続けていると、本当に突然だったのだが、「高齢者の認知症は病気ではないのではないか」と思ったのである。根拠があったわけではない。なぜそう思ったのかうまく説明できないのだが、彼らから何度も何度も話を聞いているうちに、老化とアルツハイマー病の境界線が曖昧でよく分からなくなり、病気という感覚がしなくなったのだと思う。そのときの印象は月刊「文藝春秋」(二〇一五年八月号)のレポート「認知症11人の『告白』」でこう書いている。
〈周辺症状にはすべてそうなる理由があり、根元を断ち切って周辺症状が穏やかになれば、残るのは記憶障害だけである。となれば、認知症とは病でなく、社会の「助け」があれば普通に暮らすことができる「障害」なのではないか。(略)もうそろそろ、認知症は病気という先入観から抜け出すべきだろう〉
認知症になると、新しいことが覚えられなくなる記憶障害を中心に、日時や場所など自分が置かれている状況を理解できない見当識障害などがあらわれるが、これらは脳の障害が直接的に引き起こすということで「中核症状」といわれる。これに対して「徘徊」や「暴言・暴行」などの症状は「周辺症状」と呼ばれている。介護する家族を悩ませるのは、もっぱらこの周辺症状である。後ほど詳しく説明するが、これが改善されると、認知症であっても普通に生活することは可能なのだ。
「認知症は病気ではないのでは?」と思い始めたころ、偶然にも静岡県富士宮市にいる八〇歳のアルツハイマー病の敏和さんに、「認知症になってどうですか」とたずねると、こう言われたと、先ほどのレポートに記している。
「あれは病気じゃないよ。病気でありながら病気じゃないんだよ。だからね、ああいうのはあんまり大げさにせんほうがいい」
敏和さんの妄想かもしれない。でも、実感かもしれない。確たる根拠はないが、認知症が病気であることに疑問をいだいたのはこの時分からである。もっとも、医師が診断して薬も出している認知症を、素人が病気ではないという方がおこがましく、病気でなければ何なんだ、と問われても、私にはひと言も返せなかった。
でも自分で言うのもおかしいが、間違ってはいない気がしたのである。こういうときは、自分が感じたことを信じることだ。それを他者に説明するには、さらに認知症の人から話を聞きながら、それを分析するしかない。
そんなことを続けているうちに、ようやく「認知症は病気ではない!」と断言する認知症の専門家に出会うことができた。高齢者の認知症は病気ではないことが広く知られるようになれば、根拠のない認知症への誤解と偏見を糺すきっかけとなり、認知症と診断された本人だけでなく、認知症の人を介護する家族も、その環境が大きく変わるのではないだろうか。
なお、本書で取り上げる認知症とは、老年期のアルツハイマー型認知症のことを指している。なぜアルツハイマー型だけなのか、その理由は後述する。
また、登場する認知症の人とその家族は仮名とした。
参考文献
※1 小澤勲『痴呆を生きるということ』岩波新書、2003
「はじめに」より
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