〈認知症になった実母と義母、脳出血の夫、6人の子どもたち…ある日“限界家族”になってしまった女性が2年後には「すべての苦しみ」から解放された理由〉から続く
トラックドライバー歴30年以上、短気で「暴言・暴行」を引き起こすと思われていた認知症の男性はなぜ変われたのか…? ここでは重度認知症高齢者のためのデイケア施設「小山のおうち」に通っていた、ある77歳男性の事例を紹介。
長年、認知症当事者を多く取材してきた著者のノンフィクション作家、奥野修司氏の最新刊『認知症は病気ではない』(文春新書)より一部抜粋してお届けする。なお、登場する認知症の人とその家族はすべて仮名である。(全2回の2回目/最初から読む)
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未然に暴言・暴行を防ぐ
あの人ならいつか「暴言・暴行」を引き起こすと言われながら、認知症がすすんでもついにその気配がなかった人がいる。西日本に暮らす利浩さんだ。
長距離トラックの運転手を30年以上してきたという彼は、プライドが高くて気が短く、些細なことでよく喧嘩になった。なにしろ「足が悪くて、杖をついていても転びかけることがあるのに、そばにいた人が支えようとしたら、『何する!』と怒るような人」だったと妻の光子さんはいう。そんな気性だから、「小山のおうち」に来てもすぐ喧嘩になって長続きはしないだろうと思われていた。それが1年ほどもするとすっかり馴染んだだけではなく、ヌシのような存在になっていた。
私が利浩さんに会ったのはそのころで、こんな手記を書いている。
長きょりトラック運転手として約三十年やってきて定年をむかえて、やっとかたのにがおりまして、四、五年たってから、これでは体がな(ま)ると思い家内と相談した結果、小山のおうち(に)くるよ(う)になったしだいです。来た結果、こんな良い会社があるもんだなぁと感じ、(不明)お世は(お世話)になる事を約束したしだいです。
月日のたつのも早く、年おかさねるにつれてだんと物忘(れ)がおゝくなり、自分自身なさけなくなるよ(う)に感じます。
家内もたまにいじ声(叱り声)をだすこと(が)ある。そんなこと自分に言ったり、頭にくる事がたび(不明)自分のせいだからと云いながらも家内とたび口論になるが、自分が悪いと思い、家内にあやまる事があります。自分にとっては家内は最高の家内です (利浩)
利浩さんと会う前に、「小山のおうち」のスタッフから「気分が悪いと杖を振り回すことがある」と聞いたので、ちょっと緊張しながら別室で待っていたが、初対面というのに、まるで古い友人と久しぶりに会ったみたいに顔をくしゃくしゃにしてあらわれた。
当時、77歳だった利浩さんは、長距離運転の苦労をひと通り語ったあと、手記についてはこう解説してくれた。
「ここはね、前の会社を辞めたとき、職業安定所でこんなところがあるから、行ってみないかと紹介されて入ったんです。いやぁ、(会社を)変わって良かった。これまで東は東京、西は鹿児島と、1週間に2回も長距離を走って、いい加減にせんと目をやられるぞと言われてましたからね。前の会社は夜も仕事です。50も過ぎて、家族から辞めなさいと言われて、いつまでもやっておられんと思ってました」
利浩さんは、「小山のおうち」を新たに就職した会社だと思い込んでいるのだ。利浩さんの「作話」かもしれない。
アルツハイマー病患者はなぜ「作話」をするのか?
作話(さくわ)はアルツハイマー病によくあることで、記憶障害によって覚えていないことを補うための「取り繕い反応」とされている。このデイケア施設に来た経緯を問われた利浩さんは、記憶障害のせいで近時の出来事は覚えていないから、問われても自分で今の事情を説明できない。そのために、かつて働いていた運送会社を退職したことと、今いる「小山のおうち」を結び付けて、新しい会社に再就職したという物語を創ったのかもしれない。高橋院長は「いきなり『あなたはボケていますね』と言われて、『はい、私はボケました』と言う人はいない」と言ったが、それと同じで、困ったときに自分を取り繕うのは普通の感覚であり、利浩さんの作話もそうではないか。むしろこんな物語を創作する力に脱帽する。
ついでながら、要介護認定調査に使われる「認定調査票」には、「問題行動」のチェック欄に「物盗られ妄想」「昼夜逆転」「感情の不安定」「大声を出す」などと一緒に「作話」も並んでいる。介護保険は介護を受ける本人(認知症の人など)のためにあるのではなく、家族の介護負担を軽くするためだから、作話など家族を困らせる行為は「問題行動」であるという解釈なのだろうか。
物忘れについて利浩さんにたずねると、ガッハッハッと笑い、「今週は何をしちょったか、その前は何をしちょったかと言われても、出てこんだわ」と、あっけらかんと言ったあとこう続けた。
「はぁ、物忘れは激しくなってたんやないかと思います。だども、とやかく言われるもんではないわな。みんな物忘れするもんだわ。言うからムカッとする。家内も言うもんで口ごたえするが、最後はわしの方が謝るな。あれには今も感謝しちょるけん」
このときの利浩さんとのやりとりを月刊「文藝春秋」(2015年8月号)で紹介したのだが、それを妻の光子さんが読んだらしく、何かが彼女を変えたらしい。
当初、光子さんは高橋さんからこんなアドバイスを受けていたという。
「言葉が出なくなったとき、あなたが言い返したりすると必ず手が出ますよ。そうならないためには、ご主人の言うことを否定せず、感謝を欠かさないように。挨拶のつもりでいいから『お父さん、ありがとう』と言ってください」
しかし光子さんは、そのアドバイスをあまり気に留めなかったのだろう。手記に「家内とたびたび口論になる」とあることでもそれがうかがえる。でも賢明な光子さんは、雑誌記事のわずかな文字から、利浩さんの思いと高橋さんの言葉の意味をくみ取ったらしい。それ以来、利浩さんへの接し方をガラッと変えて、二度と言い返さなかったそうだ。
「間違ったことを言っても『ほんとかね、それはよかったねぇ』と受け入れました。とにかく否定しない。それはいつも頭に入れていました。幻覚もあったようで、ぐっすり寝とったと思ったらいきなり起きて『隣にトラックを置かしてもらってあるけん、動かさないけん』と言うんです。そういうときも『私が動かしてあげるけん、安心して』と納得させました。もちろん私は大型なんか運転できませんよ。
主人はよく『忘れていけん』とこぼしましたが、そんなときは私が、『二人で一人前だと思えばいいがね。私がちゃんと覚えてるけん、大丈夫よ』と言うと、『そげか、ほんならいいわい』とニコニコしてるんです」
それ以来、利浩さんは怒ることがなかったという。
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