
現代において、マスメディアほど豊富な情報を発信する装置はない。そのメディアが伝える大相撲に、モンゴル人力士は三人の横綱(白鵬、日馬富士、鶴竜)をはじめ、複数名いる。
「なぜ、日本の相撲界にこれほど多くのモンゴル人がいるのか?」
南モンゴル(内モンゴル)に生まれ育ち、北京で学び、日本に留学し、いまは日本国籍を持つにいたった南モンゴル人である私は、日本人の読者にまず、そういう質問をしたい。
それは、白人国家・フランスのサッカーなどのスポーツ・チームに大勢のアフリカ系黒人選手が含まれているのと同じ理由からである。どちらも旧植民地の出身者(フランスならばアルジェリアなど)が、その旧宗主国で活躍しているのである。野球やサッカーなどで在日韓国・朝鮮人が活躍しているのも同じ理由からといえよう。
もちろん、厳密にいうと、いまの横綱三人の母国である「モンゴル国」は、朝鮮半島のように日本の「植民地」となったことはない。植民地となったのは、私の生まれ故郷である「南モンゴル」である。彼ら力士たちとまったく同じ祖先を擁し、少しも違わない文化と言語を共有する南モンゴルこと中国内モンゴル自治区の大半が、満洲事変(一九三一年)以降、満洲国に編入されていく形で、日本の植民地となっていったのである。
同じモンゴル人が、今日南北に異なる「国家」の民として分断されている背景には、日本という国家の存在があったのである。そのことを知る日本人は少ないが、本書を読むにあたってはそのモンゴルのそうした数奇な近現代史の歩みをあらかじめ頭に入れておいていただきたい。そこで、その史実について簡単に触れておきたい。
モンゴルの敵は西洋列強ではなくシナだった

本書は、日本が建立した満洲国内のモンゴル人たちの生き方に先ず焦点を当てているが、アジアの諸民族は一九世紀末から徐々に覚醒していった。当時、西欧列強の帝国主義的競争と侵略を受けて、アジアのそれぞれの故国はまだ植民地化されていた。そのため、アジアの民族の覚醒は、同時に暴力的な革命という形で全世界を席巻していくことがあった。
しかし、インドやインドネシアや、フィリピンのアナーキスト、ホセ・リサールなどの反植民地支配の闘士たちが、等しく西欧列強を敵と見なしていたのと対照的に、モンゴルはアジアの古い帝国である中国(シナ)からの解放を民族自決の最終目標に掲げていた。この点は、モンゴルと、インドなど他のアジアの諸民族との根本的な違いである。
従って、モンゴル民族にとって、独立するために打倒すべき「敵」としての対象がシナである以上、必然的に彼らは、シナ以外のあらゆる勢力と手を結んだ。ロシアであろうと、日本であろうと、シナからの解放を実現させるためには、西欧列強と友好的な関係を時には締結しなければならなかったのだ。「敵の敵は(ある時は)味方になりうるが、味方は(しばしば)敵でもある」というのが、モンゴルが歩んだ二〇世紀の複雑な歴史だったのである。
「ヤルタ協定」は、弱小民族の希望を葬り去った
ところで、本書の読者のために、モンゴル全体と日本との近代から現代に至るまでの関係をごく簡素に示しておく必要があろう。
モンゴル人は、一三世紀頃からチベット仏教を信仰するようになった。モンゴル高原では、ジェプツンダンバ・ホトクトという活仏が、転生制度(先代の没後、次の生まれ変わり・化身を探す)を取りながら、長年、政教一致の体制を敷いてきた。
ジェプツンダンバ・ホトクトの第一代と第二代は、チンギス・ハーンの直系子孫家から生まれ変わっているので、モンゴル人はその特別な神聖性に帰依していたのである。その後のモンゴル帝国、元などの盛衰の歴史、元寇などについては省くが、一九世紀後半の近代以降、日清戦争に敗れた清朝が崩壊し、さらに新生の日本が日露戦争でロシアを破るという新しい時代の流れのなかの一九一二~一四年にかけて、一九一一年に独立したモンゴル国の聖なる大ハーン、ボグド・ハーンとなったジェプツンダンバ・ホトクトは、再三にわたって日本に援助を求めていた。
当時の日本は共産主義思想の浸透を防ごうとしてシベリアに出兵こそしたものの、その南に位置するボグド・ハーン政権に積極的に関与することはしなかった。というのも、軍事的にもその余裕がなかったからだ。
その後、日本はもっぱら満洲国と、南モンゴルに相当する徳王(一九〇二―一九六六)のモンゴル聯盟自治政権の経営に専念したため、モンゴリアの北半分ではソ連型社会主義体制が確立していった。
このように、一九四五年夏に、日本が敗戦を迎えるまで、日本人は主として南モンゴルのモンゴル人たちとともに、その支配地域に於ける植民地的な近代化の実践に専念していたのである。
日本の敗退後、およそ八万人の騎兵が、ソ連軍の機械化部隊とともに南モンゴルに突入し、同胞たちを解放しようと奮戦した。日本でいう「ソ蒙連合軍の参戦」である。モンゴル人たちは誰もがこれで民族の統一と真の意味での植民地統治からの解放は実現できたと信じて疑わなかったが、対日敗戦処理のために結ばれた「ヤルタ協定」は、弱小民族の希望を葬り去った。それによって、最終的に南モンゴルは中国の支配下に置かれることになった。ここから、モンゴル民族の半分は、ずっと中国人の「奴隷」とされたまま今日に至り、北モンゴルの半分の同胞たちも、限られた国土で暮らすようになったのである。だから、日本人よ、どうか北であれ、南であれ、「モンゴル」を忘れないでほしい。
チベット高原で展開された血なまぐさい現代史の翳にも、日本の存在があった
ところで、その日本とモンゴルとの数奇な運命は、はるか遠くのチベットの現代史にも深く及んでいることを、これまた多くの日本人は知らないのではないか。
世界の目が一九五〇年六月から北朝鮮の南侵によって始まった朝鮮戦争に集まっていたさなか、同年十月に、中国人民解放軍はチベットに「進駐」した。その時はまだ「解放」という名の善意をふりまく寛容な占領軍の顔をしていた中国であったが、一九五六年から、チベット人たちは中国の侵略に反撃すべく武装蜂起を各地で決行した。すると、中国は容赦なくチベット人を大量虐殺し、弾圧した。三年後の一九五九年三月、ダライ・ラマ法王は同胞たちを率いて、インドに亡命した。爾来、ダライ・ラマ法王たちの遊牧ならぬ流浪の旅は、すでに半世紀以上にも及んでいる。現代史の忘れてはならない悲劇の一つである。
チベット人のそうした抵抗を壊滅に追いこんだ人民解放軍部隊のひとつに、モンゴル人騎兵があった。その騎兵部隊の将校たちは、戦前日本に留学し、日本型の近代的な軍事戦略と戦術を身につけた、日本刀を手にした獰猛な戦士、サムライからなっていた。
つまり、戦後のチベット高原で展開された血なまぐさい現代史の翳にも、日本の存在があったのである。
モンゴル軍は、一九四五年八月十五日以降、部隊内の日本人将校たちを処刑した。中国から独立したいというモンゴル人たちを日本が抑えていたからである。
モンゴル人騎兵はまた一九五八年からチベット人を多数斬った。チベット人たちが中国に抵抗していたためである。
このアンビバレンスに満ちた歴史は何を意味しているのか。
何度でも言うが、本書はモンゴル人とチベット人の歴史だけでなく、日本人の歴史でもある。
しかし、本書はモンゴル人の軍功史ではない。二〇世紀を駆け抜けたモンゴル人と日本人の近代化の歴史である。近代化への脱皮の形はいろいろあるが、モンゴルと日本の場合は、それが「日本刀」と「騎兵」だったのである。本書は、モンゴルとチベットの悲劇にまつわるさまざまな側面を「日本刀」と「騎兵」を歴史のキーワードとして取り上げている。
本来騎兵といえばルーツはモンゴルであり、チンギス・ハーンを想起する日本人も多いだろう。その騎兵戦術をモンゴルの侵略を受けたヨーロッパが改良。それを、元寇も体験した日本が明治維新以降学び、日清日露戦争を勝利に導いていった。その日本の進んだ騎兵術や馬術や軍事戦略を、今度はモンゴルの青年が日本から学んだというのも、歴史の不可思議であるといえよう。
そうした「日本刀」と「騎兵」が、織りなすチベットとモンゴルの悲劇の歴史、現代史の空白を本書によって、少しでも埋めることができれば、著者として望外の喜びである。
(本書「はじめに」より転載)
チベットに舞う日本刀
発売日:2014年12月19日
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