「ヤルタ協定」は、弱小民族の希望を葬り去った
ところで、本書の読者のために、モンゴル全体と日本との近代から現代に至るまでの関係をごく簡素に示しておく必要があろう。
モンゴル人は、一三世紀頃からチベット仏教を信仰するようになった。モンゴル高原では、ジェプツンダンバ・ホトクトという活仏が、転生制度(先代の没後、次の生まれ変わり・化身を探す)を取りながら、長年、政教一致の体制を敷いてきた。
ジェプツンダンバ・ホトクトの第一代と第二代は、チンギス・ハーンの直系子孫家から生まれ変わっているので、モンゴル人はその特別な神聖性に帰依していたのである。その後のモンゴル帝国、元などの盛衰の歴史、元寇などについては省くが、一九世紀後半の近代以降、日清戦争に敗れた清朝が崩壊し、さらに新生の日本が日露戦争でロシアを破るという新しい時代の流れのなかの一九一二~一四年にかけて、一九一一年に独立したモンゴル国の聖なる大ハーン、ボグド・ハーンとなったジェプツンダンバ・ホトクトは、再三にわたって日本に援助を求めていた。
当時の日本は共産主義思想の浸透を防ごうとしてシベリアに出兵こそしたものの、その南に位置するボグド・ハーン政権に積極的に関与することはしなかった。というのも、軍事的にもその余裕がなかったからだ。
その後、日本はもっぱら満洲国と、南モンゴルに相当する徳王(一九〇二―一九六六)のモンゴル聯盟自治政権の経営に専念したため、モンゴリアの北半分ではソ連型社会主義体制が確立していった。
このように、一九四五年夏に、日本が敗戦を迎えるまで、日本人は主として南モンゴルのモンゴル人たちとともに、その支配地域に於ける植民地的な近代化の実践に専念していたのである。
日本の敗退後、およそ八万人の騎兵が、ソ連軍の機械化部隊とともに南モンゴルに突入し、同胞たちを解放しようと奮戦した。日本でいう「ソ蒙連合軍の参戦」である。モンゴル人たちは誰もがこれで民族の統一と真の意味での植民地統治からの解放は実現できたと信じて疑わなかったが、対日敗戦処理のために結ばれた「ヤルタ協定」は、弱小民族の希望を葬り去った。それによって、最終的に南モンゴルは中国の支配下に置かれることになった。ここから、モンゴル民族の半分は、ずっと中国人の「奴隷」とされたまま今日に至り、北モンゴルの半分の同胞たちも、限られた国土で暮らすようになったのである。だから、日本人よ、どうか北であれ、南であれ、「モンゴル」を忘れないでほしい。