一方、再捜査を命じられた水戸部は三十四歳と若いし、仙台で育ったから、花街だったころの荒木町を知らない。そこで加納良一という定年退職した四谷生まれで土地勘のある捜査員の助けを借りながら、町の歴史を学んでゆく。若い世代が、昔の花街を知ろうとする。花街という場所が未解決に終った事件の鍵だと直感する。
現代の町のなかに過去を見る。いまの東京のなかにむかしの東京を見る。「地層」とはむかしの東京、具体的にはまだにぎやかだったころの荒木町の昔をさしている。本書は、過去溯行譚(そこうたん)になっている。つねに真新しく見える東京の町にも過去がある。近代の東京は変化が激しいから、町にはいくつもの過去が層になって重なっている。その過去を探しに行く。
江戸前期の俳人、服部嵐雪(はっとりらんせつ)に「五十にして四谷を見たり江戸の春」という句があるが、江戸時代、四谷は江戸のはずれだった。だから四谷見附(みつけ)という番所が置かれた。ここから先はいまふうにいえば郊外だった。玉川上水はいまの四谷四丁目交差点近くで暗渠(あんきょ)になり江戸市中に水を運んだ。水道の分岐点である。このあたりには四谷大木戸(おおきど)と呼ばれる関門もあった。(いまも交差点名に「大木戸坂下」とある)
新宿通りは、追分(おいわけ・新宿三丁目)で甲州街道と青梅(おうめ)街道に分かれるから、ゆきかう人が多かった。その結果、幕末から四谷に花街が出来、荒木町がその中心になった。
荒木町の四谷寄りにいまも津(つ)の守(かみ)坂という坂がある。坂を下ったところが靖国通りで、都営新宿線の曙橋(あけぼのばし)駅に近い。江戸時代、松平摂津守(せっつのかみ)の屋敷があったので津の守坂の名がついた。
荒木町の花街は松平摂津守の屋敷跡。若い水戸部に、ベテランの加納がこう説明している。「このあたり、江戸時代は松平摂津守の上屋敷だった一帯だ。明治になって、町人に開放された。そのあと、三業地として賑わうようになった」。さらに加納は花街としての格も高かったと説明する。「ここの芸者のことを、昔は津の守芸者と呼んだ。芸のレベルが高くて、ほかの花街の芸者から一目置かれていたらしい」
加納はまた、もう故人となった、国民的人気俳優が通った町としても荒木町は有名だったとも語る。そういえば、名は伏せるが、この「国民的人気俳優」の墓は荒木町に近い寺にある。
佐々木譲は、荒木町界隈の事情をよく調べて書いている。実際に、小説を書くに当って荒木町をよく歩いたのだろう。水戸部と加納のように。
刑事を主人公にしたミステリの面白さのひとつは、刑事がよく町を歩くことにある。刑事が、都市論でいう「遊歩者(フラヌール)」となって町の隅々まで歩く。その結果、現在の町のうしろに過去の町が見えてくる。二重映しになる。ミステリが、謎ときであると同時に、上質の都市小説になる。
佐々木譲は加納良一の口を借りながら荒木町界隈の歴史や地形を詳細に語ってゆく。東京のなかの小さな町が、特色ある町として読者にも強く印象づけられる。
新宿通りには昭和四十年代まで都電が走っていた。主要通りだったことが分かる。その都電が車社会になるにつれ廃止になった。荒木町には池がある。その河童池に降りてゆく坂道の石畳は、都電の軌道に敷かれていたもの、という細かい指摘もある。敷石を再利用した石畳は美しい。ちなみに東京では銀座通りの歩道も、都電の敷石が再利用されている。