記憶の中には、もはや時や場所も判然としないほどにぼやけてしまった景色がある。
ある日の午後、だらだらと続く坂を歩いているときに見た、眼下の屋根の連なり。
街が夕闇に沈む頃、自転車にまたがってぼんやり開くのを待っていた私鉄の踏み切り。
繁華街から一歩入ったところに突然現われた、静かな住宅地の家並み。
佐々木譲『代官山コールドケース』のページを繰るうちに、そんな風景が幻の如く眼前に甦ってきた。作家の引き起こした魔法であろう。
本作は「週刊文春」二〇一二年五月三・十日号から二〇一三年四月四日号に連載され、二〇一三年八月三十日に文藝春秋より単行本が刊行された。今回が初の文庫化である。
主役を務めるのは警視庁捜査一課特別捜査対策室の水戸部裕警部補だ。特命捜査対策室は捜査一課内に実在する、未解決事件の継続捜査を受け持つ部署である。彼の初登場作は二〇一〇年から翌年にわたって佐々木が「オール讀物」に連載した長篇『地層捜査』(二〇一二年刊。文藝春秋→現・文春文庫)だ。同作の水戸部は二ヶ月の謹慎明けから復帰したばかりだった。不祥事があったわけではなく、事情もわからずに現場を混乱させるキャリア警官に暴言を吐いたため、冷却期間をとらされたのだ。復帰後最初に担当したのが、一九九五年十月に新宿区荒木町で起きた殺人事件の追跡調査だった。退職刑事で現在は警察署の相談員として働いている加納良一という人物と組み、水戸部は十五年という時間の地層を掘り返していったのである。その事件から二年後の二〇一二年に『代官山コールドケース』の物語は始まる。今回彼に任せられたのは、荒木町の事件とは比べものにならないほどに厄介な代物だった。
事件が起きたのは一九九五年五月のことである。渋谷区代官山のアパートで若い女性が扼殺された。一人の男性が被疑者として特定されたが、逮捕を目前に控えたところで死亡する。被疑者死亡、不起訴処分ということで捜査は終了したのである。それから十七年が経過したあとで、警視庁にとっては青天の霹靂(へきれき)と言うべき事態が出来(しゅったい)した。事の発端は、川崎市中原区で強姦殺人事件が発生したことである。捜査を担当した神奈川県警が遺体から採集した精液のDNA鑑定結果を科学警察研究所に照会したところ、一九九五年の「代官山女店員殺害事件」の現場遺留資料と一致することが判明したのだ。実は代官山の現場からは、死亡した人物を含めて三種類のDNAが検出されていた。死亡した被疑者以外の二人については特定が行われずじまいになっていたのである。もしその人物が川崎の事件を引き起こしたのだとしたら、警視庁の重大な失態である。杜撰(ずさん)な捜査で真犯人を見落としていたことになるからだ。しかも死亡した被疑者の遺族からは、過酷な取調べが原因となった自殺であるとして国家賠償請求訴訟まで起こされていた。