細かいところだが、さらにこんな話に佐々木譲の地誌へのこだわりがよく出ている。水戸部が荒木町の小料理屋の若主人に父親のことを質問する。「お父さんは、もともと地元の生まれでしたよね?」。若主人は答える。「四谷は四谷ですけど、正確に言うと若葉一丁目。昔はいいエリアじゃなかったようで、親爺はあまり話したがらないんです」。
若主人は詳しく話していないが、父親が生まれたところは実は、明治時代、四谷鮫ヶ橋(さめがはし)といって、芝新網町(しばしんあみちょう)、下谷万年町(したやまんねんちょう)と並ぶ東京の三大スラムがあったところ。四谷の崖下になる。崖の上には広大な大名屋敷があり、崖下には貧しい町人が小さな家に住む。江戸の山の手の特色である。佐々木譲はさりげなく町の明と暗を描きこんでいる。都市小説の面白さである。
事件は、はじめバブル期の土地トラブルでやくざが関わっていると思われたが、水戸部が荒木町の花街としての過去を探れば探るほどそうではない様相が見えてくる。
殺されたのは元芸者。彼女には建設会社を経営する羽振りのいい旦那がついていた。また、彼女には、可愛い妹分の芸者がいて、近くの小料理屋の若い板前と好き合っていた。ところが、ある時、その芸者が姿を消した。
町の過去を調べてゆくうちに水戸部に事件の全容が見えてくる。花街ならではの男女の色恋、そして金がからんでいる。
荒木町は都心の飲食街でありながらどこか隠れ里のようなひっそりとした落着きがいまもある。路地が多い。石畳の坂がある。崖がある。崖下には池がある。芸者はもういなくなったが、花街の残り香が漂っている。神楽坂に似ているが、あの町ほどにぎやかではない。国民的人気俳優がお忍びでよく来たというのも、この町が、ひそやかな隠れ里だからだろう。 『代官山コールドケース』に「ひとつ目小町」という言葉が出てくる。一九八〇年代に言われた言葉で、ターミナル駅から各駅でひとつ目かふたつ目の駅周辺が面白いという意味。渋谷に近い代官山が「ひとつ目小町」。それに倣(なら)えば、荒木町は新宿の「ひとつ目小町」になるだろう。
杉大門通り、車力門通り、柳新道通り。荒木町には路地のような通りが多い。水戸部はその通りをひとつひとつ丹念に歩く。現代の自分を過去に溶けこませる。そして通りの奥の奥、いわば闇の中から事件の真相を見つけ出してゆく。町を歩くことによって事件を解決する。
いや、正確に言えば、事件は解決しないと言ってもいいだろう。犯人は分かったが、その犯人をどうしたらいいのか。
詳しく書くことは控えるが、人情を重視する先輩の加納と、あくまで情を抑えて法律に従うことを主張する若い水戸部が対立する。
四谷に生まれ育った加納(彼もまた若葉一丁目の生まれ)にとって荒木町は故郷である。そこに生きる人間たちを傷つけたくない。定年退職した初老の男のこの優しさに、最後は水戸部が明らかに心を寄せている。
地層捜査
発売日:2014年10月10日
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