筆者は意識していないだろうが、これはまさに堀川アサコさんの作品のことだと思った。ハーブとかはちみつとか雑穀とかの、健康に良くて本来は美味だがそれぞれに癖のある素材を、全部しっかり「わが家の味」にまとめて、読書のごちそうを作り上げる。
こうした〈堀川ワールド〉の魅力を支えているのは、文章の確かさだろう。氏のデビュー作『闇鏡』を読んだとき、新人離れした筆力に感嘆したが、その文章力は、〈幻想シリーズ〉においてはユーモラスな方向に、『月夜彦』『芳一』といった、『闇鏡』の流れをくむ歴史怪異小説では簡潔な端正さの方向に、完成されている。
といっても、これみよがしな美文ではない。堀川さんの文章は、何よりもまず、読みやすい。あまりの読みやすさに、文章の力を意識させられることなく、心はストーリーに委ねられる。そういう意味では、「だるまさんがころんだ」みたいな文章だ。抵抗なくつるりと入ってくるのに含蓄があり、軽やかなのに軽くはなく、心に残る。
さらに堀川さんの作品は、どれも根が明るい。青森在住で、イタコを主人公にした作品を書いているため、ともすると暗いイメージを抱かれそうだが、実は根底がカラッとしている。明るいといっても、主人公が試練や困難に遭遇しないという意味ではない。それどころか、人の世や物の怪の世界の残酷な現実が、けっこうな勢いで押し寄せてくるのだが、それでも物語のどこかに(多くの場合、主人公の気質に)、晴れた日の秋風のような空気が常に流れている。堀川さんの本を読んでいると、青森のイメージが変わりそうだ。
さて、話をジャンル横断性に戻させていただきたい。先ほどは触れずにきたが、実を言うと、ファンタジーとミステリーと怪談のうち、前二者の融合なら類例は多い。ミステリーは、謎とそれを解くヒントが提示されて後に、合理的な解決が示される。ファンタジーも、科学的な合理性とは異なるが、その世界独自の法則や決まりごとがあり、それに従って謎が解かれたり危機が解消されたりの大団円を迎える。融合はしやすいのだ。
ところが怪談では、背筋を凍らせる出来事が起こっても、怪異の仕組みは説明されずに終わり、その割り切れなさが味わいとなる。ミステリーやファンタジーのカタルシスとは本質的に、相容れないものだ。
けれども堀川さんは、解かれて気持ちのいい謎と、残って味わいのある謎を、本能的に峻別できるのではないだろうか。快刀乱麻のすっきり感と、理屈が解決しえない不思議の余韻を同時に皿にのせて、「わが家の味」にしてしまっている。このご馳走、まだの方はぜひ味わっていただきたい。
仄聞(そくぶん)するところによると、堀川さんは萩原朔太郎の詩がお好きだそうだ。そういえば、現実がずれていくホラー感や、品の良い滑稽味など、共通する魅力(というか魔力)も多い。解説の参考にならないかと朔太郎の詩集をめくっていたら、本書の読後感を彩るにふさわしそうな一節が、まるで何かに導かれるかのように目に飛び込んできた。タイトルまで、「夢にみる空家の庭の秘密」と、本作にシンクロしていそうな詩の、最後の二行だ。
ああ わたしの夢によくみる このひと住まぬ空家の庭の秘密と
いつもその謎のとけやらぬおもむき深き幽邃のなつかしさよ。