「小説は大説じゃないのです」「小説は事実ではなく真実を書くものです」この2つのことをある著名な小説家の方に教えていただいた。私が小説を書きたいので、どんな点を注意すべきかをお尋ねした時のことである。実はこの小説「教授のお仕事」が私にとって初めての本格的な小説なのだ。私は古代エジプトの文明研究が本業で、かつて早稲田大学で教えていた。子どもの頃より文章を書くのが好きで、いつかは小説家になろうと思っていたのだが、気がついたら研究者になってしまい、文章書きでも、論文とか報告書専門になってしまった。それでも早稲田大学の専任教員になるまでは、アラブ問題評論家とか大学問題評論家として、講演や評論をしていた。
すなわち、私は小説ではなく、大説を書いていた訳で、そのことを注意されたのであろう。大説とは国家や社会のことを、ひとくくりで評価、評論することで、個々の事情や個人の感情を勘案せずに高い位置から言うものなので、当たらず、さわらずの生ぬるい、生活観のない文章ということなのかもしれない。このことに薄々気がついた私は、もっと人間の内面から書きたいと思って、小説書き志望となったのだ。欧米では、エジプト考古学者が事実のみを表現したのでは、事の本質は語れないとして、小説家になった人も少なくない。文献や出土遺物だけしか資料として使えず、そこからの解釈も制限があることに限界を感じたのであろう。私が、「ピラミッドは王墓ではない」と講演などで言うと、「それはどこに書いてあるのですか」と言う質問がでる。この質問者の考えの中の大きな過ちは、「書いてあることは全て事実だ」と思っていることだ。
日記ですら、自分を過大に表現していることが多々あるように、歴史は権力者の記録であるから、事実とかけ離れる場合が多い。ましてや、「何々でない」と表現することは稀にでもないことを初等教育で教えていないのだ。