本書『壺霊』は私の百五十作目の作品として刊行されました。べつに百五十作記念というわけではなく、たまたま順番がそうなったに過ぎないのですが、先に京都を舞台に書いた『華の下にて』がちょうど百作目だったことを思い合わせると、不思議な巡り合わせといえるかもしれません。
『壺霊』は京都新聞に十カ月間にわたって連載されたものに、大幅に加筆して出版されました。これはまったくの余談にすぎませんが、地方紙に連載する場合、過去の例からいうと、何紙か共同で掲載して原稿料の負担を分散するのが一般的なのですが、京都新聞では一紙だけの連載。文芸担当の女性がたいへん熱心で、何回も東京まで訪ねてきて、原稿料の安いことに恐縮しながら、連載の申し入れをしてくれたものです。もっとも、私としてはそのことはあまり気にせず、書きたいテーマとモチベーションがあって、スケジュールが合致すれば受ける方向で考えていました。そしてその時期、京都を書きたいと思い始めていたところでしたから、他社との約束を先送りして、執筆を快諾しました。
京都は小説の舞台としては、日本中で最も魅力的な土地と言っていいでしょう。茶道、華道などの文化的なことはもちろん、長い歴史に裏打ちされた、複雑で細やかで厚みのある、街の佇(たたず)まいや人情は、知れば知るほど奥行きの深さを味わうことができます。この街で描き出される人間模様が面白くないわけがありません。むしろ、あまりのきらびやかさに目移りがして、何をどう書くかが難しいくらいです。
『華の下にて』は生け花の宗家という、いわば京都の上流家庭を舞台にしたストーリーでしたが、『壺霊』ではもう少し庶民的な生活感のある話を書いてみたいと思いました。しかし京都市民がどういう生き方をしているのかなどは、余所(よそ)から訪れただけの人間にはなかなか把握できるものではありません。そこで、京都の町家暮らしを体験することから取材を始めることにしました。木屋町通(きやまちどおり)、鴨川(かもがわ)べりの町家を借りて、二度にわたり、延べ二十日間の「庶民生活」体験を通じて、京都の街を歩き回ったものです。
もちろん作中の主人公・浅見光彦(みつひこ)は独立も結婚もままならないような清貧(?)の人ですから、彼が京都に滞在するにはそれ相応の理由がなければなりません。というわけで、雑誌「旅と歴史」が浅見に、高島屋デパートの人気レストラン街「ダイニングガーデン京回廊」の取材を依頼する――という設定にしました。全十六店を一週間かけて食べ尽くせという注文です。背景にはスポンサーの存在があるのですが、終わり近くまで「謎の人物」として名を伏せられたままでした。
ともあれ、こういうお墨付きと経済的バックアップを得て、浅見の長期滞在が可能になりました。その代わり作者には実際にそれら十六店を全店踏破しなければならない義務が発生したのはやむを得ません。もっとも、この長期取材のおかげで、「丸山」や「瓢亭(ひょうてい)」「菊乃井(きくのい)」といった、ふだんなら浅見風情が近づくこともできそうもない高級料亭をはじめ、「大傳月軒(だいでんげつけん)」という奇妙な(?)中華料理店を堪能(たんのう)する余得にもあずかり、これらをすべて作中に登場させています。
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