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ここぞのヨコモレ感

ここぞのヨコモレ感

文:高橋 春男 (漫画家)

『ヨコモレ通信』 (辛酸なめ子 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #随筆・エッセイ

《なぜか埼玉》を歌った《さいたまんぞう》という人、出身は岡山で、本名は牛房公夫〈ごぼうきみお〉というんです。

 なんだかわけがわからないでしょ? そんな違和感というのか、ギャップ感というのでしょうか。そんなようなものを、新大久保の韓国料理店で、辛酸なめ子さんに初めてお会いした時に感じましたよ。この目の前にいる、なぜか埼玉出身の少女のどのあたりが《辛酸》さんで、どこが《なめ子》さんなの? とね。かの《欽ドン》の良い子、悪い子、普通の子でいえば、どうみたって普通のふつ子さんです。そのふつ子さんと辛酸なめ子とにあるギャップね、違和感ね。これをなんとかしないと、名前を呼ぶのにも「辛酸さん」と呼んだらいいのか「なめ子さん」と呼んだらいいのか、戸惑いましたよ、おじさんとしては。その戸惑いを抱いたまま、おじさんは少しずつ酔っていったのでありました。酔ってしまえば別に違和感もギャップもないわけで、カラオケなんかにも行っちゃいましたよ。さらに、おじさんはなめ子ちゃん(なめ子ちゃんかよ)に、酔っぱらいが女の子によくする質問「好きな男のタイプはだ~れ?」という定番中の定番を披露しちゃいました。その時なめ子ちゃんの答が「ダライ・ラマ14世」。おじさん酔いが覚めちゃいました。いや、酔いが急にまわっちゃったというのが正解です。なんだかわけがわからなくなってしまい、気がついたら我が家で寝てましたね。数日後同じ現場にいた編集者のM崎くんに聞くと、おじさんは泥酔してなめ子ちゃんに何度も「好きな男のタイプはだ~れ?」と聞いて、しまいには無視されてました、だって。

©高橋春男

 で、書評なんですよね、この原稿。このままお茶を濁して、四方山話というわけにはいかないんですかね。だいたいおじさんは漫画家ですよ。餅は餅屋っていうじゃない。書評を依頼するなら、専門家にたのみなさいよ。うん、辛酸なめ子の似顔絵なら描きますけどね。……あ、そうか。先に似顔絵描いちゃおう。ああ、カラオケに行ったとき撮った写真もあるしね。いや、描いてみておどろきましたね。どうみてもこりゃ辛酸なめ子じゃありませんね。そこらにいる普通の女の子ですね。というか本名の池松江美さんですか。この似顔絵が何を物語っているかというと、辛酸なめ子は普通の女の子であるということを受け入れよ、ということなんですね。その普通の女の子が「好きな男のタイプはだ~れ?」と聞かれたときに「ダライ・ラマ14世」と答える、そのギャップ。普通の女の子が「ヨコモレ」とか、ふともらすこの違和感。これがヨコモレでなくて、なにがヨコモレだって話ですよ。ここしかないでしょ、辛酸なめ子の攻めどころは!

《ヨコモレ通信》は辛酸なめ子があちこちに出かけていって、普通の女の子(いや、実際にはちゃんとした大人の女性なのですが)が抱いたギャップ、あるいは違和感を語るという趣向のコラムですね。「ヨコモレ」というのもギャップがあるからこそ漏れるわけですしね。読んでみると、普通にルポをしてくれてるんですね。そう、その上でのギャップでないと、読者には何がなんだかわけがわかりませんよね。ちなみに、ボクの文章はわけがわからないとよくいわれます。おじさんの場合トシのせいか、のべつお漏らしをしてしまうんですね。その点、なめ子ちゃんはいきなりギャップだの違和感だのヨコモレを披露するというような、お行儀の悪い子ではないのであります。ただし、辛酸なめ子の《ニガヨモギ》という漫画の単行本では最初からヨコモレしてます。つまり漫画では全身辛酸なめ子なのでありましょう。

 とりあえず《ヨコモレ通信》では本名の池松江美として、普通のお嬢様としてまずはふるまう。文章もとてもお上品であります。で、ここぞというときにヨコモレするんです。

 このここぞのヨコモレ感が、《辛酸なめ子》なんです。

文春文庫
ヨコモレ通信
辛酸なめ子

定価:576円(税込)発売日:2008年05月09日

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