なぜ今、聖書を読むべきか。それは、今の時代が危機的な状況にあるからです。歴史的にみても、現在の国際情勢は、第一次世界大戦が勃発した一九一四年ごろとよく似ています。
この年、セルビアの民族主義者がサラエボでオーストリア皇太子を暗殺します。本来ならば単なる民族紛争で終わるはずなのに、戦火は世界へと広がってしまいました。戦争に消極的だったドイツも、開戦するとすぐに戦争賛成へと変化しました。きっかけは戦争擁護をうたった「知識人宣言」です。起草したのは、当時の神学界のトップで学問的良心とされた神学者アドルフ・フォン・ハルナックでした。
私が尊敬する神学者のカール・バルトは、この「知識人宣言」を痛烈に批判しています。「ドイツの神学が、皇帝の戦争へ全面的な支持を与えてしまった。神学的な手続きがすべて崩壊し、もう一度聖書を読み直さなくてはならない」と。現在も同じような危機が迫ってきています。だからわれわれも聖書を読むべきなのです。
私は、近代的な理性が行き着いた先が、第一次世界大戦の大量殺戮と大量破壊だったのだと思います。理性が大きな意味を持つようになったのは近代以降です。今と逆で、中世においては、理性で物事を理解するのは、頭の悪い人だとされていました。頭のいい人は物事を見たとたんに、直観で真理が分かるからです。
聖書は理性とは程遠い読みものです。実際、聖書のなかでイエスはわけのわからない話ばかりしています。「我々の敵以外は味方」と言ったかと思うと「我々の味方以外は敵」と言う。またイエスは、奇跡をたびたび起こします。聖書のなかの言葉は、われわれの無意識を刺激し、理性とは別の重要なものがあることに気づかせてくれるのです。
内田樹氏は『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)で、カール・バルトや新約聖書が明らかにした近代的理性の限界を分かりやすく説明しています。すなわち近代人はあらゆる事象は因果関係で結びついているととらえている。ひとつの結果にひとつの原因が対応していると考えるため、機械のメタファーでものごとを認識してしまう。そこでは、y=f(x)という数式ですべてが表されます。xが原因でyが結果。fという関数はブラックボックスです。
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