たとえばx=「中国共産党がナショナリズムを高揚させている」その結果、y=「尖閣沖で中国の漁船が海上保安庁の船に衝突する」。あるいはx=「小泉首相が靖国神社を参拝する」その結果、y=「中国の反日気分が広がった」、といった具合です。しかしこれでは、日中関係を完全に見誤ってしまいます。
中国で反日気分が作られる本当の理由は、別のところにあります。近代化しつつある今の中国では、中華帝国の漢人と異なる中国の民族意識が生まれつつある。その際に必要となるのが、外側に敵がいるというイメージです。かつてチェコ人が生まれるときにはドイツという敵が、アイルランド人が生まれるときにはイギリスという敵が必要だったのと同じことです。それゆえ日本が敵としてイメージされてしまうのは、避けようがありません。となると日本としては、敵とされるようなシンボルを中国に極力与えないようにして逃げ切るしかありません。見えるものと見えないもの、意識と無意識を扱う聖書の考え方を、対中外交にも応用するべきなのです。
聖書はまた、学校秀才の限界をも明らかにします。現在、日本の国家や社会を閉塞状況に追い込んでいるのは、学校秀才である官僚です。合理的な大学入試システムの勝者である官僚には、プロセスを省いて結論をくだす性質があります。そして官僚は、こう信じています。国民は無知蒙昧である。国民の代表である政治家は、無知蒙昧のエキスである。それゆえ政治家に国家を任せるよりも、自分たち官僚が国家を担ったほうがよい、と。
官僚たちが忠誠を誓っているのは、天皇なき日本国家、つまり官僚自身です。このようなグロテスクな状況が、現在の日本なのです。聖書のなかにはイエスを陥れようとするファリサイ派が登場します。その姿は、まるで日本の官僚を彷彿させます。聖書のなかで描かれているファリサイ派との戦いの物語は、いわば現在の日本でも進行しているのです。
聖書はさらに、外国語の勉強にも役立ちます。聖書のテキストは各言語共通です。未知の外国語を学ぶときに聖書を使えば、意味が類推できるのです。たとえばアイヌ語訳の聖書を読めば、アイヌ語では神様はカムイという単語なのだと分かります。私自身、学習用教材が手に入りにくいアルバニア語を学ぶときに、アルバニア語の聖書が役立った経験があります。
私の母は、十四歳で体験した沖縄戦をきっかけに洗礼を受けました。ですから子どもの頃からキリスト教は、私の身近にありました。同志社大学と大学院で神学を学び、外交官時代にはモスクワ大学神学部で教鞭も執りました。そんな私が、非キリスト教徒にも読める聖書があればいいなと思って作ったのが文春新書版の聖書です。聖書にはさまざまな版がありますが最も普及して影響力のある新共同訳を採用し、イエスの言葉は太字で表記、電車の中でも読めて書き込みのできる体裁にしてあります。
今こそ聖書が必要な時代がやってきたのです。
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