生き残った奴が運のいい奴
又左衛門だけではない。藤沢作品に登場する、さまざまな人物像には、記者時代に出会った企業人の面影が残っていると想像できる。
『三屋清左衛門残日録』の主人公三屋清左衛門は藩の用人で、
――家禄百二十石の御納戸役から出発し、その後累進して最後には用人を勤めた。
と紹介されているから、やはり出世コースに乗った人物であるのは間違いない。役員ではないが、敏腕な秘書室長ぐらいだろうか。
藩主の傍らでそつなく仕事をこなしてきた有能な清左衛門は、あくの強い個性とは無縁で、本来なら小説の主人公にはなり難い。
しかし、会社員でいうなら人事を含めた企業の内情にも精通している立場だ。取材する者なら、ちょっと話を聞いてみたくなる存在だと言える。
清左衛門もまた作者が話を聞いた企業人のひとりではないかと思う。
清左衛門は、友人の町奉行佐伯熊太の依頼で藩内のさまざまな事件に関わるだけでなく、自分自身の過去をも見つめていくが、その心模様は会社員が自分の人生を振り返るのに似ている。
清左衛門が出会う物語の中に「零落(れいらく)」という一篇がある。
三十年ぶりに出会った元同輩の金井奥之助は、かつて百五十石だった家禄を二十五石に減らして落ちぶれている。用人に出世した清左衛門を妬んだあげく、一緒に釣りに出かけた海で突き落そうとする。
清左衛門はそんな奥之助を疎ましく思いながらも、はねつけることができず、最後には自ら海に転落してしまった奥之助を助けさえもする。
なぜなのか。このことを考えていると、ある詩の一節が頭に浮かんだ。
――ぎなのこるがふのよかと
「残った奴が運のいい奴」という意味の熊本の方言が使われている谷川雁の詩だ。初めてこの詩を読んだ時、なぜかこの部分を「生き残った奴が運のいい奴」だと思い込んでしまった。それからは「生き残った奴」という言葉が、人生のふとした瞬間に頭を過る。
いままで生きて、多くのひとと出会った。その中で自分が生き残ったのは、何かの取得(とりえ)があったからではない、ただ運がよかったからだ、との感慨は中年にさしかかったおり、誰もが持つのではないだろうか。
清左衛門と奥之助の人生の分かれ道は、若い頃、どの派閥に属するかという決断の相違にあった。一歩、違えると清左衛門は奥之助の人生を歩んでいたかもしれない。
小さな運が後に大きく人生を変えたのだとすれば、出世した者は自らの幸運に疾(やま)しさを覚えるだろう。
まさに「生き残った奴が運のいい奴」なのだ。だから、清左衛門は海に落ちた奥之助に手を差し伸べてしまったのではないか。
また、「夢」という一篇では清左衛門が若いころ、出世の競争相手であった同僚について藩主に告げ口をしたことが明かされる。
藩主の心証を悪くした同僚は、失脚を余儀なくされた。その後ろめたい記憶が夢となって甦り、清左衛門を苦しめている。
藩主に告げた内容が事実とは違っていたのを知った清左衛門は、昔の同僚に告白して、謝ることもできずに口をぬぐってしまう。清左衛門は自分を「卑怯者め」と罵るだけだ。
清左衛門はヒーローとは言い難い、等身大のどこにでもいる人物なのだ。
この一話は衝撃を受けた清左衛門が、雪の夜に小料理屋の〈涌井〉で一夜を過ごして癒(いや)され、さらに同僚の失脚は告げ口がもとではなかったとわかるという救いが与えられている。
これは小説的な救済であって、藤沢さんが実際に出会ったかもしれない現実の清左衛門は、やはり告げ口によって同僚を失脚させ、出世したと思える。
だが、出世競争に翻弄されながらも、ひととしての心を失っていない企業人を数多く見てきたに違いない作者は、清左衛門に慰藉(いしゃ)を与えずにはいられなかったのだ。
生真面目でありつつ、しかも人間臭いひとびとを描くために小藩の武士たちを主人公にしたのではないだろうか。
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