三つ目は、『歴史を結果からみて論評しない』。
武田勢が手痛い敗北を喫した長篠(設楽原)の戦いは、信長側の主武器・鉄砲の「三段撃ち」が威力を発揮したから、と我々は学校で習った。でも、本当にそうだったか。
この戦があったのは天正3年5月21日。今の暦で言えば6月、梅雨の季節。一年で最も雨が降る確率の高い時期である。当時の「鉄砲(火縄銃)」の大敵は『水(雨)』である。あの戦上手の信長が、「雨の時期」の戦争の「主武器」に、果たして鉄砲を選択しただろうか。戦場となった長篠・設楽原は、今の新城市のあたり、当時は静かな水田地帯である。しかも戦の時は「田植え」の時期。雨の季節の、満満たる水を湛えた田圃の周辺(戦場)は泥濘状態だったのではないか。そういう状態で信長側が、戦国一の実力を誇る武田騎馬軍団に対して、三列の隊列を組んで、その三列を間断なく移動させての「鉄砲の三段撃ち」を相手を殲滅するまで仕掛け続けることが可能だったか。進取の精神に富む信長だから、当時、新しい武器として威力を発揮していた「鉄砲」を全く使わなかったことはないかもしれないが、少なくとも、鉄砲が「主武器」ではなかったと考える方が合理的である。あの戦は、馬防柵や、味方が身を隠す穴などの仕掛けをあらかじめ準備した戦場に勝頼をおびき寄せ、得意の野戦に持ち込んだ信長側の事前作戦の勝利と見るべきである。
どんな戦でも、戦う前は、勝つか負けるかは五分と五分。信長にしても、ここで負けては、それ以前の桶狭間や姉川などでの勝利が水泡に帰してしまうのだから必死である。そんな時に、「雨に鉄砲」を信長が選択する筈がない。これは「信長の勝ち」という「結果」がまずあって、経過は二の次という「結果から物事を論評する歴史家」が犯した悪例の典型、というのが合意点「その3」。
と、安西さんとは、こんな話を、ボソボソと時間をかけて話して、飽きることがなかった。
あの温かい「出会いの時間」が今でも懐かしいが、亡くなったあと、たまたま、この「ちいさな城下町」を手にし、読んでいる間中、あ、同じ感覚だな、と思った。一気に読みたい気持ちを抑えて、わざと時間をかけて、一枚一枚、丁寧にページを繰った。
この本には、歴史や城の話以外に、「冒険王」や、「イガグリくん」や「赤胴鈴之助」の名前も登場する。西鉄ライオンズの記述もある。あの時代の西鉄は「野武士集団」と言われ、滅法強かった。日本シリーズ。「ジャイアンツ・命」の野球少年の私が悔し涙にくれた破壊力満点の西鉄のスタメンは、一番センター高倉、二番ショート豊田、三番サード中西、四番ライト大下、五番レフト関口、六番ファースト河野、七番セカンド仰木、八番キャッチャー和田、九番ピッチャー稲尾。――正確ではないかもしれないが、思い出すままに、いま、何も見ず「ソラ」で挙げてみたので、お許し頂きたい。
それにしても。安西さんと私が少年時代だった、あの昭和30年代は、もう、だいぶ遠くなってしまった。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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