――作中でも、燦は「燦とは心のままに生きることを許された者の名前」と話していますね。
あさの 江戸時代は、身分制の社会です。町人は町人であり、武士は武士。武士の中でも、家老の子は家老です。『火群のごとく』でも書きましたが、つまり枠の中でしか人が生きられない時代です。だからこそ、枠からはみ出した人物を描いてみたいんです。
ただ、なにかを定められていること、思うように生きられないことは、現代でも続いていることだと思います。それが見えにくいだけ。江戸時代ほど分かりやすくはありませんが、同等の重さで、人を縛っていたり、圧していたりしているんじゃないでしょうか。ですから、「思いのままに生きる」ということは、時代を超えて、現代を生きる私たちにとっても憧れではないかと思います。特に若い人たちは「子どもであること」「現代に生きていること」という二重の不自由さをしのばなければならない、息苦しさがあると思います。そういう意味でも、同年代の燦や伊月が自由に生きてみようと戦う姿をしっかり描きたいです。
――江戸の話でありながら、〈いま〉という時間を肯定するような伊月たちの姿は、現代の若者に近い雰囲気を感じます。特に、伊月が仕える少年・圭寿(よしひさ)は藩主の二男でありながら、向上心より今のままでありたいという意志を持っているようにみえます。
あさの そうですね。前に進め進め、という物語は書きたくなかったんです。イキがいい、躍動する物語は書きたかったのですが、それは少年の精神であり肉体であると思うんです。少年が主人公だけに、変な向上心、向学心を持って、少しでも立派に、少しでも強くという前に行く物語にはしたくありませんでした。これは現代を意識したのだと思います。大震災が起こったから言うわけではありませんが、前へ前へと進んで行き着いたのが現代という〈ここ〉だとしたら、やっぱり見直したいという思いがあります。少年一人一人が何を思い、どのように行動するかを、江戸だけではなく、現代にも通じる形で描きたいですね。
――これまで執筆された時代小説に比べて、特に若い読者層を意識されましたか。
あさの 主人公の少年たちと同年代の少年少女を意識しなかったといえば嘘になりますが、ヤングアダルトというジャンルで読んでもらいたいとか、往年の時代小説ファンに手にとってもらいたいとか、そういう意識は全くありません。ただ、時代小説というだけで、うちの息子や娘からも「え、俺たちの読むものじゃない」って敬遠されちゃう(笑)。それは我が家の問題ではなく、大半の子にあるように思うんです。そこに書かれている魅力的な人間、人の生き方、日々の暮らしというのは、若い人にもきっと響くと思う。読んでみれば、古くさいわけでも難しいわけでもないのに、16歳の伊月と同じような年代の少年たちが、読まずに済ませてしまうのは本当にもったいないことです。この作品が、若い人に時代小説が浸透する一つのきっかけになったら、書き手冥利につきますね。