その場所には私も行ったことがある。
東日本大震災、そして原発事故が起こってから、1年と8カ月が経過し、これから一段と秋が深まっていこうとする季節に。震災以来、幾度となく、その場所を訪れている記者たちにお願いして連れて行ってもらった。
人のいなくなった町で、たった1人で生活している男性にも会った。置いていかれた牛や犬たち、そしてガチョウの世話をしながら彼は暮らしていた。
特に印象的だったのは、植物の勢いである。放置されたままの梨畑では、人によって矯正されなくなった枝が、空に向かってまっすぐ伸びていた。そして、どこにでも生えるセイタカアワダチソウ。それらが繁茂する様子には、獰猛さすら感じたほどだ。
田口ランディ氏の最新作品集の最初の1編、「ゾーンにて」は、39歳の小説家、羽鳥よう子が、福島第一原発から半径20キロ圏内の警戒区域「ゾーン」を訪れるところからスタートする。原爆をテーマにした「イワガミ」という小説を書いた、というエピソードから、よう子は田口氏自身をどうしても連想させる。 『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ 原子力を受け入れた日本』(ちくまプリマー新書)、そして、前作『サンカーラ この世の断片をたぐり寄せて』(新潮社)を経て、また、水俣、チェルノブイリ、東海村JCO臨界事故など、その出来事から距離と時間をおかず、近づき、見つめ続けてきた、田口氏のこれまでが、集積され、濃縮された小説といってもいい。
「ここでは、動物と人の境が曖昧な気がした。」(「ゾーンにて」)という一節があるが、作品全体を覆うのは、飼うものと飼われるもの、見るものと見られるものとの視線の曖昧さだ。ゾーンに残された牛、動物実験でシャンプーやリンスを目にたらされるウサギ。彼らと同じように、物言わぬ眼球で、書き手は、世界を凝視し続ける。
ひと昔前に、ステレオグラム、つまり、目の焦点を意識的に前後にずらして合わせることで、立体的に見える写真が流行ったが、この作品集の手触りはそれに似ている。物語が進むにつれ、ゾーンの内側と外側、避難所の中と外、結界の中と外と、書き手の視界はさらに拡大していく。その温度差によって、濃密な物語の気配がくっきりと立ち上がってくる。
4編目の「モルモット」という作品では、特にそれが顕著だ。新型うつと診断された女と、かつて形成していたコミュニティから外れた女(トキさん)。
国から半永久退避地域「ゾーン」と指定された猫底と呼ばれる場所に2人がとどまり、過ごす日々が鮮やかに描かれる。鶏が産んだ卵、畑で取れた野菜、山の幸を食べる暮らし。伝説の舞踏家の最後の弟子だったというトキさんから、体の使い方、その1歩として正しく「立つ」方法を伝授される。
「パラダーイス、パラダーイス、ここはパラダーイス。」と2人が歌うように、そこがどれだけ放射性物質にまみれた場所であろうと、猫底は女たちにとっての楽園なのだ。
静寂を破るのは、かつて猫底にいた男、彼が連れてきた医者、そしてビデオカメラを抱えた男たち。「モルモット」以外の物語でも、コンピュータ制御で放射線を照射してがん細胞を潰す最新機器を操る医師、計測マニアの編集者などが登場するが、土の上に素足でしっかりと立つ女たちと比べて、どこか直線的で、ポキリと折れてしまうような印象がある。
「男ってのは変な動物でね、なんでも思想にしたがるのよ。(中略)自然と共生するとか、自然を大事にするとか、偉そうなこと言ったって、それもぜんぶ人間側の理屈だもんね……」
こんな台詞で思い出すのは、あの原発事故が起こったあと、テレビで、新聞や雑誌で、そして、ネットで、口角泡を飛ばしていた人たちの姿だ。そうした行動を非難しようとは思わない。
けれど、原発というモンスターのようなもの、そしてそれを受け入れてきた世界を考えたとき、もう、今までのような答えの求め方では無理なのでは、という思いも頭をよぎる。
「決断しない……ということを、私は7年かけてトキさんから学んだと思う。」
多くの人が納得する明確な答えを出すのは、確かに必要だ。それが豊かさや心地よさを推し進めるときもある。けれど、そこからこぼれてしまうものも多すぎる。会社に適応できなかったり、病を患ったりしている、この物語の登場人物たちのように、レールを外れた人を攻撃し、外側に追いやってしまうことも事実だ。
時間とともに思いや感情は揺らぐ。
それは悪いことでも、弱いことでも、恥ずべきことでもない。時間をかけて考え続ける。そう心に決めるだけでもいいのではないか。ひどい痛みや、重すぎる問いを抱えたまま、正しく立つ方法をそれぞれが考えよ。この本が放つ小さな問いは、いつか読み手にとって、大きなマイルストーンとなるのではないか。そんな気がしてならない。