- 2016.01.27
- 書評
高放射能汚染地域〈ゾーン〉をめぐる文学実践。計り知れないほど深くて広い田口ランディの紡ぐ世界
文:結城 正美 (金沢大学教授・環境文学)
『ゾーンにて』 (田口ランディ 著)
「ゾーン」とは何なのだろう。
ごく普通に考えれば、原発事故後に放射性物質で汚染されて立ち入り禁止や居住制限を受けた地域を指す。一九八六年四月のチェルノブイリ原発事故、二〇一一年三月の東京電力福島第一原発事故で、大量の放射性物質が放出され、原発から半径何十キロというかたちで地図に示された地域がそうだ。
田口ランディ氏の描く「ゾーン」は、そういう物理的な土地を指すだけでなく、いつの間にか人の心に接続し、タルコフスキー監督の映画『ストーカー』さながら人の内面を映し出すところがある。たとえば、この中篇集の最初の一篇「ゾーンにて」で〈ようこそ福島第一原子力発電所へ・この先1.5km〉と書かれた看板の下――いわばゾーンの心臓部――に立った主人公の羽鳥よう子に、田口氏はこう言わせている。「早くゾーンから出たいような、出たくないような妙な気持ちだった。ここは、あの世との中間みたい。宙づりになった場所で、なんだか懐かしい。」人間がつくり出した高放射能汚染地域であるにもかかわらず、あの世とこの世がつながり、生者が死者と出会えるような、この世ならぬ空間としてゾーンがイメージされ、しかも、そこで「懐かし」さを感じるとは、これは一体どういうことなのだろうか。
怖さや忌避感と結びつけられることの多いゾーンに「懐かしい」という感情を重ねる田口氏の文学世界は、独特のものである一方で、まったく新奇というわけではなさそうだ。「宙づりになった場所で、なんだか懐かしい」と語られる場面を読みながら、私は、石牟礼道子『苦海浄土――わが水俣病』の一節、水俣病患者の解剖に立ちあった語り手が、メスが入れられ心臓が「最後の吐血をとげ」たときに「なにかなつかしい悲傷のおもいがつきあげてきた」と語る場面を連想した。現代社会はとかく生/死、自己/他者、文化/自然といった二分法的発想を好むが、そうではない、概念的に未分化な世界との交感から生まれる心の状態が「懐かしさ」という言葉で表されているとすれば、それは、ある具体的な経験や思い出に由来するというよりも、もっと何か普遍的な感情を指すと考えられる。石牟礼氏の言葉を借りれば、世代や性別や、あるいは種(しゅ)さえも関係なくもちうる、「生類(しょうるい)」の感覚といえるものかもしれない。