「昭和」そのものであった人物がこの世を去り、元号が改まったとき、日本経済は熱狂の只中にいました。しかし“バブル”と呼ばれたそれが文字通り泡と消え、人々は、日本中が膨大な負債を背負わされたことに気づきます。そして続々と発覚する経済事件――。そんななか、新しい時代の訪れを予感させるプリンセスが誕生しました。
1985年~94年のできごと
1985(昭和60)年 女子プロレスブーム 『1985年のクラッシュ・ギャルズ』(柳澤健) | 詳細 |
1986(昭和61)年 男女雇用機会均等法施行 『女たちのサバイバル作戦』(上野千鶴子) | 詳細 |
1987(昭和62)年 中嶋悟、F1参戦 『F1 走る魂』(海老沢泰久) | 詳細 |
1988(昭和63)年 リクルート事件 『リクルートという奇跡』(藤原和博) | 詳細 |
1989(昭和64/平成元)年 昭和天皇崩御 『昭和天皇伝』(伊藤之雄) | 詳細 |
1990(平成2)年 東久邇宮稔彦王死去 『不思議な宮さま 東久邇宮稔彦王の昭和史』(浅見雅男) | 詳細 |
1991(平成3)年 イトマン事件 『平成経済事件の怪物たち』(森功) | 詳細 |
1992(平成4)年 天皇訪中 『中国共産党「天皇工作」秘録』(城山英巳) | 詳細 |
1993(平成5)年 皇太子ご成婚 『ザ・プリンセス 雅子妃物語』(友納尚子) | 詳細 |
1994(平成6)年 巨人対中日、10.8決戦 『10・8 巨人VS.中日 史上最高の決戦』(鷲田康) | 詳細 |
1985(昭和60)年 女子プロレスブーム
『1985年のクラッシュ・ギャルズ』
(柳澤健 単行本刊行 2011年)
1970年代の女子プロレスブームの立役者がジャッキー佐藤、マキ上田のビューティ・ペアなら、80年代の主役は紛れもなく長与千種とライオネス飛鳥のクラッシュ・ギャルズだった。
84年にペアを結成し、ダンプ松本、ブル中野らの「極悪同盟」と激しい抗争を繰り広げるクラッシュ・ギャルズ。翌年、二人の人気は最高潮に達した。8月28日。大阪城ホールは十代の少女で埋め尽くされた。長与千種対ダンプ松本、敗者髪切りマッチ。少女たちの祈るような瞳がリング上の一点に注がれる。クラッシュは私たちの苦しみを背負って闘っている。二人のように、もっと強く、もっと自由になりたい――。
「十代の少女たちに自分の基準などない。人生の正解は飛鳥であり、千種であった。親衛隊とはすべてを知り、共有するためのシステムであり、隊員たちは飛鳥の不器用さも、千種の計算高さも、すべてわかった上で愛した」(「あとがき」より)
長与千種とライオネス飛鳥、そして二人に熱狂した少女たち。その25年の物語。
1986(昭和61)年 男女雇用機会均等法施行
『女たちのサバイバル作戦』
(上野千鶴子 文春新書刊行 2013年)
職場での採用、待遇などについて男女の差別を禁止した男女雇用機会均等法。法律の上では“仕事における男女平等”が実現した。
では、あれから30年、働く女性は幸せになったのか?
女性学の第一人者、上野氏の答えは「イエス&ノー」だ。バリキャリは、依然として男性中心の職場の中で、体を壊したり家庭生活が破綻したりしがち。一般職は、社内でお局さま扱いを受けて煮詰まる。派遣社員は安い給料のまま将来の保証もない。
自由を手に職場進出を果たしたはずなのに、なぜなのか。それぞれ追いつめられた状況にあるのに、なかなか手を取り合えない女性たち。誰の意図のもと、どのような経緯で女性たちは“分断”されたのか。上野氏はそのルーツを雇用機会均等法に求める。
家事や育児を背負いながら働かざるをえず、脱落したら「自己責任」。もはや「お局さま」にすらなれない厳しい時代をサバイバルするための必読書。
1987(昭和62)年 中嶋悟、F1参戦
『F1 走る魂』
(海老沢泰久 単行本刊行 1988年)
全日本F2、国際F3000、ル・マン24時間などに参戦しつつ、1984年よりホンダF1のテストドライバーを務めていた中嶋悟。87年、ついにロータス・ホンダより日本人初のF1フル参戦を果たした。当時34歳。チームメイトは27歳のアイルトン・セナだった。
本書は、ルーキー中嶋の奮闘を中心に、圧倒的な強さを誇るナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケ、セナのホンダ・エンジン勢と、迎え撃つアラン・プロスト、ゲルハルト・ベルガーらの、87年の熱き闘いを生き生きと描いている。
この年フジテレビがシーズン全戦の放映を開始し、10年ぶりの日本グランプリが鈴鹿サーキットで開催。日本のファンは中嶋の走りを逐一目撃することになった。中嶋は87年シーズン全16戦出走、10戦完走。最高位4位(イギリスGP)、7ポイント獲得、ドライバーズ・ランキング11位。
中嶋は以降91年まで5シーズンにわたり参戦する。それはスーパースター、アイルトン・セナの覇権時代とも重なり、日本に空前のF1ブームが巻き起こった。
1988(昭和63)年 リクルート事件
『リクルートという奇跡』
(藤原和博 単行本刊行 2002年)
6月18日、朝日新聞朝刊社会面に「『リクルート』川崎市誘致時 助役が関連株取得 公開で売却益1億円」という見出しが躍った。この記事こそ、政界を揺るがすリクルート事件の発端だった。
リクルートの子会社、リクルートコスモスの未公開株を譲渡された政治家は竹下首相、中曽根前首相、宮沢副総理、安倍自民党幹事長ら90人に及び、真藤恒NTT前会長、そしてリクルートの創業者、江副浩正会長ら多数の逮捕者を出した。国民の間には政治不信が高まり、翌年6月、竹下内閣は総辞職。同年の参院選で自民党は過半数割れの歴史的惨敗。この状態は現在に至るまで尾を引いている。
一方、リクルートは蘇った。事件に追い打ちをかけたバブル崩壊、そして1992年のダイエーによる買収など幾多の危機を乗り越え、2014年には東証一部に新規上場し、時価総額2兆円の企業となった。
リクルートはなぜ復活できたのか。なぜユニークな人材を次々と輩出し、時代の先端を走り続けてこられたのか。同社幹部としてそのすべてを見届けた著者が明かす、“奇跡の企業”の秘密。
1989(昭和64/平成元)年 昭和天皇崩御
『昭和天皇伝』
(伊藤之雄 単行本刊行 2011年)
1987年、昭和天皇は天皇として史上初めて開腹手術を受けた。以降、その体調は一進一退を繰り返し、公式行事出席も88年8月の全国戦没者追悼式が最後となった。
1月7日、87歳で崩御。同日、明仁親王が即位。翌日、元号は平成と改まった。
「誕生から崩御まで、天皇を中心に昭和という時代を、なるべく信頼できる史料や著作にもとづいて、じっくり考えてみることは、現在の私たちの足元を見つめなおす機会となるだろう」(「はしがき」より)
生気に満ちた皇太子時代。即位直後の迷いと苦悩。戦争へと向かう軍部を止めようとする懸命の努力。円熟の境地による戦争終結の決断。強い道義的責任の自覚を持って日本再建に尽力する戦後――。
母・貞明皇太后、妻・良子皇后、子・今上天皇と美智子妃などとの生々しい家庭生活にまで筆を費やした、「昭和」そのものである人物を描いた決定的評伝。第15回司馬遼太郎賞受賞作。
1990(平成2)年 東久邇宮稔彦王死去
『不思議な宮さま 東久邇宮稔彦王の昭和史』
(浅見雅男 単行本刊行 2011年)
1月20日に死去した東久邇宮稔彦王。前年の昭和天皇に続き、「昭和」の象徴が逝った。享年102。歴代首相の中で最長寿を保った。
1945年8月17日、ポツダム宣言受諾を受け鈴木貫太郎内閣は総辞職。4カ月の在任中、天皇の信頼篤い鈴木は終戦工作に奔走し、見事に着地させた。
鈴木のあと、第43代首相として史上唯一の皇族内閣を率いたのが稔彦王である。9月2日の降伏文書調印、同5日の「一億総懺悔」を唱えた施政方針演説など、敗戦処理に一定の区切りをつけ、10月5日総辞職。首相在任54日間は史上最短である。
実は日米開戦直前の41年秋、東條英機の対抗馬と目されたのもこの宮さまだった。日本の危機に、二度にわたり「切り札」として期待された宮さまの実像は、しかしあまり伝えられていない。新史料を駆使した本書で明かされるのは、波乱万丈、痛快無比、勝手放題のその実力者ぶり。臣籍降下騒動、女性問題、右翼との危険な関係などなど、興味津々の人生が初公開される。
1991(平成3)年 イトマン事件
『平成経済事件の怪物たち』
(森功 文春新書刊行 2013年)
大阪の総合商社イトマンの不正経理をめぐる一連の疑惑は、戦後最大といわれる経済事件に発展した。
7月、大阪地検特捜部は河村良彦(イトマン社長)、伊藤寿永光(経営コンサルタント)、そして最後の大物フィクサーと呼ばれた許永中らを特別背任等の容疑で逮捕した。イトマンとメインバンクの住友銀行から流出したカネは実に3,000億円。その行方は解明されず、闇に消えた。河村は7年、伊藤は10年、許は7年半の懲役刑が確定。
本書は、週刊誌記者を経て独立し、権力のタブーに切り込むジャーナリストとして健筆を振るう森氏が、平成の世を騒がせた経済事件の主役15人を描く。許永中、江副浩正(リクルート事件)、磯田一郎(住友銀行の“天皇”)、高橋治則(イ・アイ・イ)、金丸信(佐川急便事件)……彼ら“怪物”を通して、現代日本の真の姿が見えてくる。
1992(平成4)年 天皇訪中
『中国共産党「天皇工作」秘録』
(城山英巳 文春新書刊行 2009年)
10月23日、天皇陛下が中国の土を踏んだ。北京・人民大会堂で開かれた楊尚昆国家主席主催の歓迎晩餐会で、天皇は「わが国が中国国民に対し、多大の苦難を与えた不幸な一時期」に言及、以降28日まで滞在した。日中国交正常化20周年にあたる年に実現した、史上初めての天皇訪中だった。
天皇訪中は、中国にとって70年代からの悲願だった。1972年9月、北京で日中共同声明に調印した田中角栄首相は、帰国の途につく際、周恩来総理にこう話しかけられた。
「天皇陛下によろしく」
周のこの発言は、毛沢東主席の意向を受けてのものだった。また84年には、中国政府は親中派の田中元首相を通じ、昭和天皇の訪中を極秘裏に画策してもいた。
毛、周、鄧小平、胡耀邦、楊尚昆……彼らはなぜ「天皇」にこだわったのか。時事通信の敏腕外信記者である城山氏が、日中両政府中枢をはじめ、150人に及ぶ関係者への取材により、初めて浮かび上がらせた日中外交の最奥部。それは、“インテリジェンス戦争”に他ならなかった。
1993(平成5)年 皇太子ご成婚
『ザ・プリンセス 雅子妃物語』
(友納尚子 単行本刊行 2015年)
皇太子徳仁親王と小和田雅子さんの結婚の儀。6月9日、皇居から東宮仮御所までオープンカーに乗ってパレードする二人を、沿道に集まった19万人が祝福した。次代の天皇と外交官出身の才女。誰もが皇室の輝かしい未来を確信した。
それから11年。2004年5月10日、欧州歴訪前の記者会見の場で、皇太子の口から衝撃的な言葉が発せられた。「雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」――いわゆる人格否定発言。同年、雅子妃は適応障害により療養生活に入る。
以来、雅子妃の回復が思わしくないことに加え、愛子内親王の不登校問題など、皇太子一家は難しい問題に直面し続けている。
皇室は日本の縮図といわれるが、雅子妃の半生には、仕事と結婚の迷い、不妊や高齢出産、精神医療、子どもの不登校など、現代女性の主要なテーマが凝縮されているかのようだ。この20余年、雅子妃は幸せだったのだろうか。雅子妃病状の真相をスクープした友納氏が徹底取材で描く、プリンセスの素顔。
1994(平成6)年 巨人対中日、10.8決戦
『10・8 巨人VS.中日 史上最高の決戦』
(鷲田康 単行本刊行 2013年)
10月8日、日本プロ野球58年の歴史で、初めての局面が訪れた。中日対巨人第26回戦、ナゴヤ球場。ともに69勝60敗の同率首位、残り試合1。すなわち「勝ったほうが優勝」。巨人監督・長嶋茂雄はこの一戦を「もはや国民的行事」と語った。
史上最高の舞台で、両チームは死力を尽くした。巨人先発・槙原寛己、中日先発・今中慎二。2回表の落合博満のソロ本塁打を皮切りに、両チームは細かく得点を積み重ねていく。
7回裏、巨人が3点リードした場面で、マウンドに3日前に先発したばかりの桑田真澄が上がった。桑田は3回を無失点で乗り切る。6対3。巨人、4年ぶりのリーグ優勝。
平均視聴率48.8%(プロ野球史上最高)、2010年にNPBが現役監督、コーチ、選手を対象に実施したアンケートで「最高の試合」部門1位。国民的行事の言葉に恥じない激闘だった。
伝説となったこの一戦を、今中、松井秀喜、立浪和義、桑田、大豊泰昭、斎藤雅樹……戦った男たちの証言で克明に綴る。10.8決戦には、野球の面白さのすべてが凝縮されている。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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