この本『京都うた紀行』には、近江八幡の「近江兄弟社」などというのが新しい歌枕として入っていて、「さざなみの近江兄弟社メンターム折りふし塗りて六十七となる」との高野公彦の面白い一首が挙げられている。そういうところがこの本の京都名所ガイドブックとは全く違って、終始私的で、私的なるがゆえに詩情深く、断然新鮮な詩歌の書となっているゆえんだ。妻亡きあとを生き永らえて八十代半ばの老書生となった私は、いまなお風呂上りなどにはメンソレータム(私はそう呼びならわしている)を顔に塗ったりしているが、その縁もあって、私たちの小旅行ではケーブルカーに乗って八幡宮の山頂から琵琶湖を一望すると、町中に出て、近江兄弟社の創業者にして建築家、ウィリアム・M・ヴォーリズの記念館を訪ねもした。
この項の執筆者は河野裕子さんで、なぜここに高野氏の歌を選んだかといえば、夫妻の長男永田淳さんが、一家のアメリカ留学からの帰国後、小学校で再適応に苦しむのを見て、調査研究の結果、近江兄弟社中学に転校させた。それが非常な好結果を生んだ、と母親としての喜びをこの項に語り、その喜びが高野氏の「メンターム」の歌にすぐさま反応させたのだと書いている。
ついでに言えば、この『うた紀行』のなかには、永田夫妻それぞれの詠歌ばかりでなく、深泥池(みぞろがいけ)の項には母がこの淳さんの叙景の一首を、出町柳の項には父が長女永田紅(こう)さんの恋の歌数首を、歌枕の例歌として挙げている。兄妹の歌はさすがにそれぞれの土地の霊に応えて美しく、それらに寄せる父母の読解と評も淡々としてよくゆきとどいている。世界文学史上にも稀な詩人一家の幸福といえよう。(附記すれば、永田淳さんはつい最近〈二〇一五年八月〉、『評伝・河野裕子――たつぷりと真水を抱きて』という分厚い一書を出した〈白水社〉。昭和平成の日本を代表する女性歌人としての母の仕事をつぶさに論じ、妻として母として夫と子供たちを愛しつくし、一家の日常を支えつづけた人の姿とその一生を、実に周到にこまやかに、そして息子としての思慕をこめて語ったみごとな評伝である。)
さて私たち親子のドライヴでは、近江八幡から湖東を北上して、高月(たかつき)町出身の儒者雨森芳洲の記念館を訪ね、その屋敷裏の川と山々の眺めも、町内の静かな流水の音もあまりによくて長居してしまい、渡岸寺(向源寺)に戻ったときはもう夕暮れて、肝心の十一面観音を拝することはついにできなかった。長浜に一泊して翌日、ようやく伊吹山のドライヴウェイを登って、頂上(一三七七m)真下の台地に着いた。長男は一人で山頂まで登ったが、私と妻はもう疲れて台地に残り、茶屋でうどんなど食べ、東と北に連なる山々を眺め、谷間からひびいてくる鳥の声を聞いていた。
なぜこのような私個人の思い出を、いまこの本の「解説」に書くのか。それは本書『京都うた紀行』の近江の国の部で、永田和宏氏は渡岸寺観音堂の項に、
湖北路の十一面観音雪なかにこもりてひそと笑み給ふらむ
小西久二郎
との、私の知らぬ高月町在住の歌人の一首を挙げ、その読みのなかに、戦国の世に戦がこの村に及んで寺が焼かれたとき、村人たちは観音様を救い出して土中に埋めた、との伝えを語る。そのために御像の金箔はすべて剥げて黒いお肌になってしまった。だが「(御像の黒い肌に)その歴史を重ねあわせると、村人たちの必死の思いとともに、金箔よりはるかに尊い光に包まれているように感じられるのである」と、妻裕子のあの「昏き器」に呼応するようなまことに美しい言葉を、永田氏はここに加える。そして毎項、例歌に対する反歌のように項末に数段下げて自分たちの一首を掲げるのだが、この渡岸寺では同行した妻をいたわって――
君が歩みのはかなきを率(ゐ)て来たりける湖北の寺は時雨(しぐ)れつつ照る
永田和宏
との旋頭歌風の一首を添えている。
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