――それが、仏教における「慈悲」という考え方ですか。
玄侑 基本的に「慈悲」というのは、誤解されるかもしれませんが、ある心の状態になるときに、生理的に発散されるものだと思うんですよ。太陽に当ったら暖かい、といったようなもので、あくまでもロジカルで思索的なものではないと思いますし、その発散は誰にでもできるんですが、ただ、時として「自己」というものがそれを邪魔しているような気はします。ただ、その自己っていうものをフィクションだと私は思っています。もし、自己というフィクションが人間から取っ払われれば、色んな現象が起こるんじゃないかと思うんですけれど……。
対談をした中で、五木さん、梅原さん、京極さんといった作家の方々が、特に日本の固有の文化をもう一度見つめなおしたい、というようなことをおっしゃっていました。それは、小説が明治以降に造られた近代的自我というフィクションを乗り越え、新しいものを生み出す時代にきたということかもしれません。
立松和平さんは、「小説は神通力で書く」という話をされていましたが、もともと人間が持っている能力が、すんなり出たものが、神通力です。だから、自我というか、自己というフィクションがあって、それを打ち破れば神通力というものを出せるんだと思いますね。
――次の小説も、どんなことを題材にされるのか楽しみです。
玄侑 いま書いているものは、共時性がテーマですね。シンクロニシティ、つまり同じ時間に、まったく別の場所で起こっていることが、実は何らかの形で関連し得るのではないか、ということをテーマにしたものです。情報伝達というのは、ある臨界点に達すると、口から口へという方法でなくても、離れたところに伝わることがあります。インフルエンザなんかでも、「あれは宇宙からとんでくるんだ」という人が未だにいますが、人から人への感染だけでは説明のつかない速度で広がっていくのも事実です。
多生の縁じゃないですけれども、われわれには見えない因果、あるいは因果律を補う世界観のひとつとして、シンクロニシティは重要なんではないかと思います。ある自殺をめぐるその現象を、初の長編小説として仕上げるつもりです。ただ坊さんの仕事も忙しくてね(笑)。
――今回の対談集『多生の縁』では、お坊さんとしての玄侑さんからも、たくさんの考えるヒントをいただきました。
玄侑 決して結論ではないですけれどね。でも、多分、読者の皆さんにとっても結論でなく、ヒントがいいんだと思います。「それとなく」という風に情報が入らないと、素直に飛びつけない、っていうところがあって。これが命令形でこられると、どんな正しいことでも嫌でしょう。だから、対談という形で、それとなさというものに溢れているのが、この本の良さかもしれないですね。
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