さて、そうした落下のストイシズムと昏(くら)い快感は、もちろん本作『棺に跨がる』でも十全に発揮されている。
しかし今度の秋ちゃんへの暴行はまずい。さすがに、まずいだろう。
あいかわらず、定職もなくヒモのような暮らしをしている貫多だが、幕開け早々、彼の足蹴りによって、秋ちゃんが肋骨を何本か折ってしまうのだ。
事の経緯はあいかわらずしょうもない。
彼女は貫多とつきあって初めて大衆食堂でカツカレーというものを食し、大いに気に入って、十日に一度は食卓に出すようになった。その夜も、この得意料理を作って貫多に出したのだが、とことん腹が減っていた彼はなりふり構わずガツガツと食べてしまった。それはそれで微笑ましい図のように思うが、ここで秋恵が「――まるで、ブタみたいな食べっぷりね」とからかったとたん、怒りを爆発させた貫多は、「スプーンを皿に放ると、それをやにわに台所の壁目がけて力一杯に投げつけ、ついで秋恵の髪を引き掴んで振り廻し、感情任せの足蹴をその尻と云わず肩口と云わずに、延々と繰りだす仕儀となってしまった」。
今回ばかりは菩薩のごとき秋恵も、態度を硬化させる。ところが、前科二犯の身の貫多は実刑を恐れ、骨折した彼女を病院にも行かせない。どうしても痛むのであれば、接骨院に行けと言い、接骨院で秋恵が暴力沙汰について伏せておいてくれると、「有難うね」と卑屈に礼を言う。なんともはやである。
貫多(および作者)が「病的なまで」にのめり込み私淑する私小説作家・藤澤清造がらみのエピソードも、先行作群からつづいている。これまでも、貫多はこの作家の墓標を入れるガラスケースを六十五万円もかけて作ったり、清造の私家版全集の出版を企てたり(そのため、秋恵の両親から三百万円の借入までしているが、実現していない)、清造の二十九日の月命日には欠かさず、泊りがけで能登の墓を参りにいく(そのための飛行機代などの費用は、もちろん秋恵にたかっている)。
『棺に跨がる』では、清造の墓の隣に自分の墓まで作っており、借金した金も当然使いこむ。
最初の表題作で亀裂の入ったふたりの仲は、いつもと違ってなかなか修復せず、このまま秋恵に振られて「女ひでり」に陥るのを恐れる貫多は、彼女を野球観戦に誘ったり(「脳中の冥路」)、みずから手料理を作ったりして(「豚の鮮血」)機嫌をとるが、じきにまたぞろ殴る蹴るの暴行の末、彼女の黒髪を掴んで、冬の深更の戸外へと追いだすという虐待をやらかす(「破鏡前夜」)。
本作では貫多の性根はどのようかと言うと、「根が完璧主義」、「根がどこまでも誇り高く、かつ、極めて瞬間湯沸し器的な質にできてる」、「根が生まれついての狂王気質」、「根がデリケートで、幼少時より他人の顔色窺いにできてる」、「多汗症のくせして根がデオドラント志向」、「僻み根性と猜疑心と自己愛のエレメントのみで出来上がってるみたいな、性格が歪むだけ歪んで最早矯正も一切不可能な」ということだそうである。
狂王のごとく横暴でありながら、他人の顔色窺いをするというのは相いれなく思えるが、西村作品においては両立する気質なのだ。
棺に跨がる
発売日:2016年07月29日
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