書評

虫歯を嚙みしめるような快感――西村賢太の私小説を読む

文: 鴻巣 友季子 (翻訳家)

『棺に跨がる』 (西村賢太 著)

 日本近代文学の私小説は苦手だと思う読者がいるのは、なんだかうじうじと内向きで得手勝手な主張が並んでいて、結句「お前のことなど知るか!」と思わせてしまうからではないだろうか。たしかに西村賢太の主人公も、粘着質で傲慢で、内省が堂々巡りし、利己的で矛盾だらけ。

 とはいえ、「私」を語りっぱなしで、脇の甘い書き手もいるなか、きわめて脇の締まった文章を書くのが、西村賢太の美質だろう。じつに自覚的で精妙な筆の操作によって、ダメ男の不快さ自体をむしろ一個のエンターテインメントに仕立てている。

 このような創作技術の高さに加えて、その裏にある周到な自己批評意識が重要だ。

 小説にはものすごく大雑把に言って、主人公の目線と作者の目線という問題がある。両者が同じ目線に立っている小説は、たいがい面白くない。他方、本人は利口なつもりの人物を愚かに書くとか、本人は物知らずだというわりに賢い人物像が浮かびあがる小説の方が面白い。ずれに批評が含まれるからだ。ちなみに、いちばん危険なのは、自分は賢いと思っている主人公をそのまま賢くお洒落に描くような場合。主人公=作者と思われ、自己陶酔などと言われてしまう。

 その点、西村賢太の作品は、従来の私小説のように主人公≒作者と思わせながら、面白いのだ。それは、これまで書いてきたように、貫多のキャラクターと自己評価がつねに分裂しているからだろう。自分でボケてはツッこみ、ツッこんではボケるようなことを繰り返す。「インテリ」「完璧主義」「誇り高い」と形容すると、すぐに、「見栄坊」「根が大甘」「顔色窺い」と対立するようなことも書く。

 また、主人公が自分の欠点を的確に自覚し表現するスリルもさることながら、さらに抜かりがないのは、的を射た自己分析を重ねさせた挙句、やっぱり自分を愚かに見せる点である。馬鹿に「見えてしまう」のと、意図的に馬鹿に「見せる」ことの違い。自分どっぷりの私小説のふりをして、作者と主人公の間に、冷静な距離がある。

 かくして作者と主人公の目線の薄いすきまから風が入る。その結果、ともすれば息苦しくなりそうな私小説が、現代的なフィクションとして再生するのである。

 今後も絶妙の筆さばきに期待したい。

棺に跨がる
西村賢太・著

定価:本体560円+税 発売日:2016年04月08日

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