
この話を最初に読まなかった私は、幸運だった。もし、これを先に読んでいたら、私の中の新選組像は、司馬さんが描いた通りのものになっていただろう。
新選組を描いた小説を数多く読んできた私は、楽しみつつも、不満があった。それは、多くの作品が司馬さんの影響を色濃く受けているように見えた点だ。もっと違う新選組の話が読みたい――私はずっとそう願ってきた。
近年、浅田次郎さんや木内昇さんによって新しい新選組像が描かれたが、残念ながらそうした作品は少ないままだ。しかし、それは仕方がない話なのかもしれない。
『燃えよ剣』の土方は、やはり飛び抜けてかっこいい。近藤が愚かで役立たずな男として描かれている点は少々不満だが、沖田総司は明るく愛嬌がありつつも、ちょっと不気味で魅力的だ。
『新選組血風録』では、それぞれの隊士から見た新選組像が面白い。隊士といえど、皆が同じ方向を見ていたわけではない。それぞれの人生が見えてきて、彼らもまた一人の人間だったのだと思えた。これも司馬遼太郎の説得力が為せる業なのだろう。強引さも多々感じるものの、その自由さがまたいいのだ。
それに比べて他の新選組作品は、不自由なものが多い印象である。司馬さんが作った新選組像から逸脱してはならない――または、正反対のものを描かなければならないと思い込んでいるのかもしれない。
その疑いは、何年経っても晴れなかった。だから、私はこう思ったのだ。読みたいものを自分で書けばいいのだと――。
そうして書いたのが『夢の燈影(ほかげ)』という連作短篇集だったのだが、果たして司馬さんの呪いから逃れられたのかは分からない。分からないまま、今度は新選組の長編を書いている。
私は新選組を偏愛するあまり作家になったわけだが、実のところ一番後押ししてくれたのは「司馬遼太郎の呪い」だったのかもしれないと思った次第である。