「痛い! 痛い! 痛い!」
みほりの声に驚き、警備スタッフは手を離した。
もう一人の警備スタッフがみほりの背後に駆け付けてきた。
二人いれば安心ね。
ささらは少しほっとした。
「なんだよ? 文句あんのかよ?」
二人の警備スタッフは互いにちらちら顔を見ながら、躊躇していた。
この人たち使えない。単なる楽なバイトだと思ってたから、実際のトラブルに対応できないんだ。
ささらはマネージャーを探した。
だが、マネージャーの姿は見えなかった。おそらく、握手会の間は暇なので、近くの喫茶店にでも行ってるのだろう。警備スタッフがいるから、大丈夫だと思っているのかもしれない。
男はポケットからナイフを取り出した。
ハリキリ・セブンティーンのメンバーたちが悲鳴を上げた。
その声で男はますます興奮し始めたようだった。
「おまえら」男は警備スタッフたちに言った。「近寄るな。刺すぞ」
二人の警備スタッフは首を振った。
「下がってろ」
二人は後ろに下がった。
普通に考えて、暴漢に下がれと言われて下がるのは警備スタッフの風上にも置けないが、バイトに、命の危険を顧みずに職務を全うしろ、というのも酷だろう。
「警察を……」ささらはやっと声を絞り出した。「誰か警察を呼んで」
何人かが携帯電話を取り出した。
「動くな!!」男が叫んだ。「電話を掛けたら刺すぞ!!」
この混雑の中、数メートル離れていれば、男のナイフは絶対に届かないはずだ。だが、目の前でナイフを翳されると、思考が停止してしまうのだろうか、誰も電話を掛けようとはしなかった。
もっとも、それが正解だった可能性もある。誰かが電話を掛け始めたら、この男は激昂して周囲の人間を誰彼お構いなしに刺したかもしれないのだ。
男はみほりの手をさらに強く引っ張った。
みほりは机の上に引き摺りあげられる格好になり、足が宙に浮いた。
「うぉー!」男はみほりの手にナイフを振り下ろした。
だん、という鈍い音がした。
ナイフはみほりの右手の親指の付け根辺りに当たっていた。
切っ先が皮膚の中に入り込んでいるように見えたが、ささらはきっと目の錯覚だと思った。
そう思いたかったからだ。
だって、血が出ていないじゃない。
みほりはしばらく呆然と自分の手を見ていたが、突然絶叫した。
じくじくと血が流れ始めた。
突然パニックが始まった。
全員がその男から離れようとして、互いにぶつかりあい、その場で転倒したりして、身動きがとれなくなったりした。
男はみほりの手からナイフを引き抜いた。
血が噴き上がり、周囲に霧のように広がった。
ささらは顔にひんやりとしたものを感じた。
これが血飛沫ってものなのね、とぼんやり感じていた。
「痛い! 痛い! 痛い!」みほりはなんとか逃げようと身を捩った。
「天誅!」男は引き抜いたナイフを振り上げた。
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2017.09.26ニュース
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