もう一つ、授業が本になるとありがたいのは、「今日はうまく説明できなかったけれど、本にするときにはちゃんと出典に当たって調べて、書誌情報も正確を期します」という言い訳が成り立つことです。ふつうの、まともな先生は授業に先立ってその日の授業で言及するはずの文献については下調べをしておいて、引用も正確を期するものなのですが、僕は授業で話しているうちに、「全くそんな話をする気のなかった話」に果てしなく逸脱するという悪癖がありまして、そういう準備をすることができない。
それは講演も同じで、学会の場合などですと、時にはずいぶん前に(半年くらい前に)「抄録」というものを提出しなければならないのですが、講演当日には、そこに書いたことにも、そもそも演題として選んだトピックにもすっかり関心がなくなっていて、書いたことと全然関係のない話をして終わりということもしばしばあります。話がぜんぜん演題の通りに進行しないので、主催者や司会の方々が舞台袖で青ざめる……という風景をこれまで幾度も拝見することになりました。
でも、これが治らないのです。話しているうちに、ふっと「あれって、これじゃない?」というつながりが思い浮かぶと、その手がかりを追わずにいられない。「予定通りに」ということがどうしてもできないのです。最初に予定した通りに話すのが退屈なんです。授業のときもそうでした。授業の仕込みをするのは、せいぜい前の日。ひどいときは始業のベルが鳴る30分前くらいから仕込みにかかる。仕込みと言っても、仕込んだ話をするためにするのではありません。いくつかの「面白そうなトピック」をリストにして列挙しておいて、教場に行ってから、“そのトピックから思いついた別の話”をするのです。
「そういえばこんな話を思い出した」というのが人間知性の働きの創造的なモードだということをグレゴリー・ベイトソンが『精神と自然』で書いておりましたけれど、これはほんとうにその通りなんです。That reminds me of a story.この「that」に当たるのが「仕込み」です。「そういえば」の「そう」です。
この本では素材としての自分の本と、それについての発表者たちからのコメントが「そういえば」に当たります。僕がそれからあとしゃべったこと、それに加筆したことは、「こんな話を思いついた」という部分です。ですから、本の標題とも、発表者のコメントとも、ぜんぜん関係ない話にどこまでも逸脱する、というテクストが散見(どころではありませんが)されます。
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