書評

一人でいても複数形――内田樹という「場」の秘密

文: 赤坂 真理 (作家)

『最終講義 生き延びるための七講』 (内田樹 著)

 読み終わって、一人の人の話と声を聴いたのだとは思えない余韻が、体の中に残っている。残り続けている。

 話していたのは内田樹、一人、だという。でも水平的にも時間軸的にも、私はいったいどのくらいの声と話を聴いたのだろう。

 私はそれを分析できない、計測できない。それは、頭で考えるのではなく実感としてそこに在り、体で残響を味わっている。まるで私の体が、響きのよい建物になって、過去から未来までの響きを今この瞬間に、味わっている感じ。肉のかたまりと思ってきた体が、実は広大なスペースであって、始まりから未来までの響きを一瞬のうちに保持している。そんなことさえ発見する、この感じ。

 なんだろう、この感じ。こんな読書体験は持ったことがない。こんなことが、一冊の本にできるなんて。

 そして、こう願っている自分を発見する。

 ああ、「この感じ」を表現できる言葉を持ちたいなあと。

 すべてを表現できるとは思わない。言葉にしたとたんに嘘になることがあるのも承知している。が、それでも、言葉にしがたいものを言葉にしようとしてみなければ、人間が言葉を持った甲斐なんかはない。そう思う私にとって、内田樹は常に先生だった。一度も授業を受けたことなどなくとも、先生だった。先をゆく背中だった。

 そして、そう、本書を読んで私に起こったこと、それこそは「教育」そのものだと思う。教育とは生徒の中に、渇望を起動させることだ。ああなりたい、という。渇望がなければ、何もできない。そしてそれは、起こそうとして起こせない。渡そうとして渡せない、受けようとして受けられない。何も起こらないリスクに耐えながらも、求め続けること、与え続けることの中で、初めて起こりうる。起きないときには起きず、起きるときには起きる。起きたとき、今までのいろいろなことがつながる。それを待つことの中にしか、学びは発生しない。

 教育が、すぐに役立つことを授受するべきであるという昨今の風潮が、根本的に間違っているのはそのためだ。すぐに役立つことは、進んでいるようで、常に遅れている。あるニーズに応えたときには、ニーズは別のものへと移っている。この本のすべての話の中に、このメッセージは通奏低音のように流れている。

「学び」や「教え」とは、特定の知識やその量よりも、心身の構えに関する何かであるように思う。未知へと常に開かれながら、未知を既知の枠に収めようとせず、矛盾に白黒つけようとせず、そういう力があればこそ、未知に対応できるという、そんな力。学びは一生に何度でも起こりうる、けれどその都度まっさらな体験としてそれはやってくるだろう。時には全く同じフレーズが、全くちがう学びへの契機となったりする。それは自分を、あたらしいものへと変容させてゆく。

 教育に「ついて」の本はたくさんある。だが、たとえ内容を忘れてしまうときが来ても、体験そのものに打たれて、自分の中に強烈な渇望が起動した、という刻印は永遠である。それは、移ろう事象の中で、移ろわない。こんなことを起こしてしまう本というのは、やはり、めったにない。先生はえらい。先生はすごい。

【次ページ】

最終講義 生き延びるための七講
内田樹・著

定価:本体750円+税 発売日:2015年06月10日

詳しい内容はこちら



こちらもおすすめ
書評ファンとして、弟子として、 崇拝者として語る(2014.12.28)
書評あけっぴろげな政治談議の可能性(2014.05.21)
書評『邪悪なものの鎮め方』解説(2014.02.04)
書評『仏教シネマ』解説(2013.10.01)
書評『うほほいシネクラブ』主な掲載映画名一覧(2011.10.19)
書評危機を生き抜くために聖書を読む(2010.11.20)
書評挑発する「27人のすごい議論」(2008.06.20)
書評棒をくわえた犬と精神の強度(2008.01.20)
書評小さな始点と大きな終点(2006.07.20)