読み終わって、一人の人の話と声を聴いたのだとは思えない余韻が、体の中に残っている。残り続けている。
話していたのは内田樹、一人、だという。でも水平的にも時間軸的にも、私はいったいどのくらいの声と話を聴いたのだろう。
私はそれを分析できない、計測できない。それは、頭で考えるのではなく実感としてそこに在り、体で残響を味わっている。まるで私の体が、響きのよい建物になって、過去から未来までの響きを今この瞬間に、味わっている感じ。肉のかたまりと思ってきた体が、実は広大なスペースであって、始まりから未来までの響きを一瞬のうちに保持している。そんなことさえ発見する、この感じ。
なんだろう、この感じ。こんな読書体験は持ったことがない。こんなことが、一冊の本にできるなんて。
そして、こう願っている自分を発見する。
ああ、「この感じ」を表現できる言葉を持ちたいなあと。
すべてを表現できるとは思わない。言葉にしたとたんに嘘になることがあるのも承知している。が、それでも、言葉にしがたいものを言葉にしようとしてみなければ、人間が言葉を持った甲斐なんかはない。そう思う私にとって、内田樹は常に先生だった。一度も授業を受けたことなどなくとも、先生だった。先をゆく背中だった。
そして、そう、本書を読んで私に起こったこと、それこそは「教育」そのものだと思う。教育とは生徒の中に、渇望を起動させることだ。ああなりたい、という。渇望がなければ、何もできない。そしてそれは、起こそうとして起こせない。渡そうとして渡せない、受けようとして受けられない。何も起こらないリスクに耐えながらも、求め続けること、与え続けることの中で、初めて起こりうる。起きないときには起きず、起きるときには起きる。起きたとき、今までのいろいろなことがつながる。それを待つことの中にしか、学びは発生しない。
教育が、すぐに役立つことを授受するべきであるという昨今の風潮が、根本的に間違っているのはそのためだ。すぐに役立つことは、進んでいるようで、常に遅れている。あるニーズに応えたときには、ニーズは別のものへと移っている。この本のすべての話の中に、このメッセージは通奏低音のように流れている。
「学び」や「教え」とは、特定の知識やその量よりも、心身の構えに関する何かであるように思う。未知へと常に開かれながら、未知を既知の枠に収めようとせず、矛盾に白黒つけようとせず、そういう力があればこそ、未知に対応できるという、そんな力。学びは一生に何度でも起こりうる、けれどその都度まっさらな体験としてそれはやってくるだろう。時には全く同じフレーズが、全くちがう学びへの契機となったりする。それは自分を、あたらしいものへと変容させてゆく。
教育に「ついて」の本はたくさんある。だが、たとえ内容を忘れてしまうときが来ても、体験そのものに打たれて、自分の中に強烈な渇望が起動した、という刻印は永遠である。それは、移ろう事象の中で、移ろわない。こんなことを起こしてしまう本というのは、やはり、めったにない。先生はえらい。先生はすごい。
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