〈○○と話したい。○○の素顔を見たい。○○のことをもっと知りたい。顔を覚えてもらいたい。友達になりたい。恋人同士になりたい〉
〈○○のことを思うと、時間はあっという間に過ぎていった。いくら時間があっても足りなかった。○○に出会うまでの人生は無駄にすら思えた。あの頃の時間を今に補填したいくらいだ〉
〈○○に出会ってからというもの、食欲は旺盛だ。口にするものすべてがこれまでに感じたことのないおいしさだった。すべてのものが血や肉となり、それがエネルギーとなって、○○に向かって熱く放たれてゆく〉
〈○○の存在は家にいたって会社にいたって、いつだって××と共にあった。○○はいつも心の中心に大きく存在していて、なにをするときもなにを思うときも、××は○○と寄り添っていた〉
〈三十代、四十代は瞬く間に過ぎた。寝ても覚めても○○のことで頭がいっぱいで、夢中になって応援した。自分の時間はほとんどすべて○○に費やした。それについて、これっぽっちの後悔もない。むしろ誇りに思う。××の人生の選択肢には「○○」しかなかった〉
〈自分のつまらない欲や思いがまわりまわってどこかで歪曲され、○○に悪いことが起こるのかもしれない。その考えは、××にとって納得しやすいことだった。道筋がはっきりわかれば、余分なことは切り捨てて考えられる。××は自分と○○との関係性について考えることはやめて、○○だけの希望を祈ることにしていた。○○の希望は××の希望だった〉
ここで質問です。これまでの人生の中で〈○○〉にあてはまるような人に出会ったことがありますか? 自分より大事だと思えるような相手に、すべての愛情を捧げたことがありますか? わたしはありません。椰月美智子の『伶也と』を読んで、そんな剣呑な恋だの愛だのを経験してこなかった我が身の幸運に胸をなで下ろしています。〈××〉に相当する主人公・瀧羽直子の、ここで描かれていく四十年間のあれこれに震え上がっている自分がいるんです。
六年間熱のない交際を続けていた二歳年上の彼氏・深田敦彦と別れ、大学院修了後、せっかく入社できた大手電機メーカーも辞め、壁紙を作る会社に再就職し、工程課というそれまでの職歴とは正反対の事務職についた、直子三十一歳の五月。
そこが、この物語のスタートラインです。
新しい職場は居心地も良く、ホールケーキで三十二歳の誕生日を祝ってもらい、感激する直子。その時、三歳年下の鎌田由佳から「一緒に行こう」とプレゼントされたのが、ゴライアスというバンドのライブチケットでした。ライブハウス初体験の直子は、最初のうち、ドラムのアキトに夢中な由佳のノリについていけず、とまどうばかりだったのですが、『アイラブユー』というスロウバラードを歌いながら、こちらに差しのべてくるボーカルの手に応えようとした瞬間から劇的な変化を遂げることになります。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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