別冊文藝春秋

『今晩泊めてくれないか』北尾トロ――立ち読み

文: 北尾 トロ

電子版18号

「別冊文藝春秋 電子版18号」(文藝春秋 編)

前回までのあらすじ

収入の減少と長野県松本市の自宅を拠点にしたいという理由から東京の事務所を引き払ったトロさん。しかし、仕事の都合で、週の大半はどうしても東京で過ごすことになる。そこで思いついたのが「ヤドカリ生活」だった。義母の家や後輩ライターの家を泊まり歩く一方で、家では娘が不登校気味。トロさんは、東京に住む義母からは「松本にはいつまで住むの?」とやんわりプレッシャーもかけられて……トロさんの悩みは尽きない。


松本の夏と、東京への里帰り

 四月後半から十月半ばまでの半年間の松本は、とても気候がいい。なかでも夏は陽射しこそ強烈だが、朝晩は涼しくて快適。標高約六百メートルとあって湿気が少なく、めったなことでは雨も降らないため、我が家ではエアコンを使わずに過ごしている。

 リゾート地みたいな松本と、高温多湿の東京をひんぱんに往復していると体調を崩しかねない。そこで、自分なりの工夫を試みることにした。六月のヤドカリは九泊(他に地方取材が三泊)。取材や打ち合わせをうまく集中させることができたら、あと二泊は減らせるだろう。

 余った時間を何に使いたいか。野菜づくりの手伝いだ。

 以前から自然農法に興味を持っていた妻は、移住後しばらくして野菜やハーブ作りを開始。ワークショップにも参加するなどして知識を身につけ、二年前から市民農園に登録して六畳ほどの畑を借りている。僕はこれまで、たまに雑草取りをするくらい。味がいいのは認めるとしても、新鮮野菜が手軽に入手できる松本で、手間暇かけてわずかな収穫を得る野菜づくりには興味が持てないでいた。移住後、狩猟免許を取得した僕は冬の三カ月間、アマチュア猟師として活動しており、野菜づくりは妻の領分と決めつけてもいた。

 でも、収穫があろうとなかろうと飽きずに畑へ出かけていく妻を見ていると、そこにはなにかがあるに違いないと思えてきた。夏野菜の準備に入る四月後半が、松本生活を見直す意識が高まってきた時期と重なったので、余計にそう感じたのかもしれない。

 そこで、初めて種まきから手伝ってみた。すると、しばらくしてひょろりとした芽が土の中から顔を出したのだ。

 うわっと思った。化学肥料を使わず、雑草も抜くのではなく刈るだけの、厳しい環境で育てる農法なので、発芽率は高くない。その条件を突破し、芽を出してきたコイツは、我が畑の有望株だ。育ててみたい。

別冊文藝春秋からうまれた本



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