「空調の方ですか」
内側から戸を開けながら僕は聞いた。
「江藤楽器の板鳥(いたどり)です」
楽器? では、この年配の男性は僕が迎えるはずの客ではないのかもしれない。担任に名前を聞いておけばよかった。
「窪田先生から、今日は会議が入ったとお聞きしています。ピアノさえあればかまいませんから」
その人はそう言った。窪田というのは僕に来客を案内するよう言いつけた担任だった。
「体育館にお連れするよう言づかっているのですが」
来客用の茶色いスリッパを出しながら聞くと、
「ええ、今日は体育館のピアノを」
ピアノを、どうするのだろう。そう思わなくもなかったけれど、それ以上のことに特に興味はなかった。
「こちらです」
先に立って歩き出すと、その人はすぐ後ろをついてきた。鞄が重そうだった。ピアノの前まで連れていったら、それで帰るつもりだった。
その人は、ピアノの前に立つと四角い鞄を床に置き、僕に会釈をした。これでもういいです、ということだと思った。僕も会釈をし、踵(きびす)を返した。いつもならバスケ部やバレー部で騒がしい体育館が静かだった。高い窓から夕方の陽が差し込んでいた。
体育館からつながる廊下に出ようとしたとき、後ろでピアノの音がした。ピアノだ、とわかったのはふりむいてそれを見たからだ。そうでなければ、楽器の音だとは思わなかっただろう。楽器の音というより、何かもっと具体的な形のあるものの立てる音のような、ひどく懐かしい何かを表すもののような、正体はわからないけれども、何かとてもいいもの。それが聞こえた気がしたのだ。
その人はふりむいた僕にかまわず、ピアノを鳴らし続けた。弾いているのではなく、いくつかの音を点検するみたいに鳴らしているのだった。僕はしばらくその場に立っていて、それからピアノのほうへ戻った。
僕が戻ってもその人は気にしなかった。鍵盤の前から少し横にずれて、グランドピアノの蓋を開けた。蓋―僕にはそれが羽に見えた。その人は大きな黒い羽を持ち上げて、支え棒で閉まらないようにしたまま、もう一度鍵盤を叩いた。
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