2016年の「本屋大賞」第1位に選ばれた宮下奈都さんの『羊と鋼の森』は、静謐で美しい文章と、調律師として理想の音を追い求める主人公の青年の姿に、共感の輪が広がりました。その結果、2016年上半期の小説ベストセラー第1位に。 読者の方は、この作品のどこに感動したのでしょうか。『羊と鋼の森』で最も好きな一文(80字以内)を募集したところ、多くの投稿をいただきました。
音を言葉で表現する 文章の美しさが読者の心を捉えた
最も多くの方が選んだのは、次の一文です。
森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。(P.3)
「冒頭のこの一文を読みながら、すぅっと息を吸い込みました。匂いの確定の設定が冒頭から書かれてあったところが、他にはない作品だなと思ったから」(大阪府 36歳 女性)
「とても文学的な匂いのする心地よい書き出しです。ここから主人公の位置にズームインして、物語が動き始める訳ですが、それがとても自然な流れで読書意欲をそそられました。本屋さんでこの小説を手に取り、この一文に目を通したとき、これは読まねばならないと強く惹かれるものがありました」(大阪府 48歳 男性)
最初の一文から、宮下さんの描こうとしている世界の風景が、読者を強く引きつけたようです。なかには、こんな感想を寄せてくださる方も。
「正直いうとどこか好きな文を一文だけってのは挙げられません。その時の心境で響いてくる言葉は違いました。言ってみればそれはまさにピアノの音のようでした。なので、その全ての出発点。最初の一文を好きな一文として挙げさせていただきます」(東京都 20歳 男性)
外村は、高校の体育館にあるピアノを調律に来た板鳥の鳴らす音に魅入られます。曲ではなく、ただ鳴らしただけの音。それを聞いているうちに、北海道の深い森の風景が、徐々に像を結んでくるように思えました。ピアノは、大雪山系にも多い松の木で出来ていると知ります。
だから、僕にも景色が見えるのだ。あの森の景色が。だから、こんなに僕の胸を打つのだ。あの山の森が鳴らされるから。(P.10)
「音を聴いて、景色が見える。なんて素敵な世界なんだろう、と思ったからです」(長崎県 43歳 女性)
「この一文が、私を物語にグッと引き込んでくれました」(愛知県 59歳 男性)
今回募集したなかで、ほかにも物語の冒頭に近い部分を挙げて下さった方が何人もいらっしゃいました。音を文章で表現するという宮下さんの誠実な挑戦が、読者の心を掴んだ証とも言えるでしょう。
ピアノに出会うまで、美しいものに気づかずにいた。知らなかった、というのとは少し違う。僕はたくさん知っていた。ただ、知っていることに気づかずに居たのだ。(P.19)
「宮下さんの小説を読む度に気づかせてくれることを象徴した一文でした。宮下さんの小説は、登場人物たちの心の揺れ、変化、成長(成長、と一言で言うには惜しい気がする)の丁寧さが売りであると同時に、我々の中にある、ひとりひとり違う『芽』に気づかせてくれるような力があります。それを再度実感できた印象的なシーンです」(滋賀県 28歳 男性)
また、外村が憧れる先輩調律師、板鳥が引いた原民喜の文章を挙げた人も。
明るく静かに澄んで懐かしい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体(P.57)
「宮下さんが原民喜の言葉を引いたものですが、この文の美しさに心を奪われました。このような素敵な文を拾うセンスに舌を巻きましたし、宮下さんの作品そのものが、象徴されているようで強く心に残りました」(神奈川県 50歳 男性)
調律師を目指している女性からも投稿いただきました。
銀色に澄んだ森に、道が伸びていくような音(P.229)
「私は専門学校でピアノ調律を学んでいます。通い始めて半年、あまりに複雑で気の遠くなるような、音との闘いの毎日です。それでも、この一文で、自分がピアノに魅了される理由、調律師を目指す理由に改めて気付かされ、励まされました」(千葉県 26歳 女性)
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